神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

❤️栄化への実践22 〜背骨を天に繋いで①

スコット(仮庵祭)とは、出エジプトイスラエル民族が出エジプトで荒野の仮小屋に住んだことを記念し、子孫へ伝えるための祭りです。

ミシュナーに次のような言が載っています。「ベート・ハショエヴァの儀式を見たことのない者は、本当の歓喜というものを知らない」(スカー5:1)。このベート・ハショエヴァとは、スコットの2日目の夕べ、シロアムの池から汲んだ水をエルサレム神殿に運び、それを祭壇に注ぐ儀式のことです。ヨハネ伝7:38に、イエス・キリストが、仮庵祭に「私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と叫んだとあります。このイエスの言葉は、神殿に水を注ぐベート・ハショエヴァの祭りを意識して、ユダヤ人に語りかけたことも分かります。

また、水は御言葉を指します。ヨハネ伝1:14 の「ことば(λόγος:ロゴス)は、肉体と成ってわたしたちの間に幕屋(仮小屋)を張られた(ἐσκήνωσεν)」を暗示しています。つまり、(λόγος:ロゴス)なるイエスが、肉体と成ってわたしたちと幕屋(仮小屋)に住みたもうことを想起させる祭りでもあります。

この祭りの初日に行うことがルーラブです。

レビ記23: 40にこうあります。
「一日目に、あなたがたは❶美しいシトロンの木の実、❷ナツメヤシ(ルーラブ)の枝、❸葉の茂ったミルトスの大枝、❹小川のハコ柳を取らなければならない.  そしてエホバ・あなたがたの神の御前で七日間、喜ばなければならない。」レビ記‬ ‭23:40‬ ‭(私訳‬‬)

この4種の植物について、ラビ・マニが、ミドラッシュVayikra Rabbah 30:14で、話しています。

ミドラッシュVayikra Rabbah 30:14より

ラビ・マニは、開きました。「 わたしのすべての骨は叫びます。 『主よ、あなたに並ぶものはありません。 』」詩編‬ ‭35:10‬ ‭

この詩は、ルーラブ(四種の植物)についてだけ述べたものです。
ナツメヤシの枝は人間の背骨に似ています。❸ミルトスは目に似ています。❹川柳は口に似ています。そして❶エトログ(シトロン)は心臓に似ています。 ダビデは言いました。「四肢のすべてで、身体全体を比べても、これらよりも偉大なものはありません。」

これは、「わたしのすべての骨が叫びます」を意味します。〜以上

 

4種の植物は、❶シトロン=心臓、❸ミルトス=目、❷ナツメヤシ=脊柱、❹柳=口という人間の各部分を表すと言っています。❶心臓、❸目、❷背骨、❹口は身体の重要な器官で、その重要な器官が『主よ、あなたに並ぶものはありません 』と讃美しながら、生ける水を慕い求めるのです。

 

 今まで、栄化への実践15、16、17で、スコットで使う「4種の植物」の3つについて説明してきました。

❹aravah (ערבה) アラバ:口。香りのない=み言葉をよく知らない、実もない=実行のない人

❸hadass (הדס) ミルトス:目。香り=み言葉をよく知るが、実のない=行ないが伴わない人

❶etrog (אתרוג) シトロン:心臓 。香り=み言葉をよく知り、実=行ないの素晴らしい人

以上3つについて、説明してきました。

そして、今回の❷ルーラブです。ルーラブは、4種の植物の束を指して「ルーラブ」と言うこともありますが、単一では、❷lulav (לולב)  ナツメヤシ、背骨を表しており、香りのない=み言葉をよく知らないが、実=❺行ないの素晴らしい人を表しています。

ルーラブは、「❺行ない」が鍵であります。

今まで❹口→❸目「み言葉をよく知る」→❶心「み言葉も行ないも素晴らしい」→❷背骨「行ない」という順番で話してきました。

順番から言えば❶心(心を天に積む)の方が最終に来るべきじゃないかと思いますが、私自身の経験では、❷背骨「行ない」が実践するには一番難しく最後になってしまいます。

今回は、❷ なつめやし=ルーラブ:背骨について探ります。

私的な解釈ですが、今まで4器官についてそれぞれを、神の御国の支配に入れることについて話してきました。4器官は、以下のような順番で御国の支配に入る体験ができると思います。

❹アラバ:口(聖霊による口舌の支配)→❸ミルトス:目(霊眼の開眼)→❶エトログ:心臓(心を神の国に上げてしまう)→❷ルーラブ:背骨(キリストと繋がって❺行動する)

この4つから、霊→魂→肉体へと、支配が変えられて行くのです。

 

【❷背骨は、行動を司る】

タルムードでは、❷lulav (לולב)  なつめやしは、❺行動が素晴らしい人を表しています。また、❷背骨を表します。

❷背骨(脊椎)には、身体を支える、❺身体を動かす、神経を守るという働きがあります。❷背骨の中の脊髄には全身の運動神経や知覚神経があり、頭から繋がった神経が束になり、背骨の中を通っています。背骨は、❻頭からの神経の指示に従い❺身体を動かす重要な器官、つまり脳の指示に「❻従い❺行動する」器官となります。

詩編には、このようにあります。

「❻神に従う人は❷なつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。」‭‭詩編‬ ‭92:13‬ ‭新共同訳‬‬

❷なつめやし(ルーラブ)は、❻神に従う人を形容しています。

また、山上の垂訓では、4つの身体の器官について話されていると、栄化への実践16で説明しましたが、❷脊柱(背骨)については、書かれてないように見えます。しかし、山上の垂訓で話されている「❺行なう」ことがキーワードになります。

マタイ5章

5:16同じように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい.それは、彼らがあなたがたの良い❺行ないを見て、天におられるあなたがたの父に栄光を帰すためである。
 5:17わたしが律法や預言者を廃止するために来たと思ってはならない.廃止するためではなく、成就するために来たのである。
5:18まことに、わたしはあなたがたに言う.天地が過ぎ去るまで、律法の一点一画も決して過ぎ去ることはなく、ついにはすべてが実現するのである。
5:19だから、だれでも、これらの戒めの最も小さいものの一つを廃棄し、人にそう教える者は、天の王国で最も小さい者と呼ばれる.しかし、それらを❺行ない教える者は、天の王国で大いなる者と呼ばれる。マタイ5:16-19(回復訳)

そう、❷ルーラブ(背骨)は、(❺行動する)ことを指す器官です。

ルカ伝6章でも

6:46あなたがたは、なぜわたしを『主よ、主よ』と呼んでいながら、わたしの言うことを行なわないのか?
6:47すべて❽わたしの所に来て、❻わたしの言を聞き、それらを❺行なう者はだれに似ているかを、あなたがたに示そう。
6:48その者は、深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる人に似ている。洪水が起こり、川が氾濫してその家に押し寄せても、それを揺るがすことはできなかった.それはしっかりと建てられていたからである。
6:49しかし、❻聞いても行なわない者は、土台なしで地面に家を建てる人に似ている.川が押し寄せると、たちまちその家は崩壊し、しかもその破壊はひどかった」。(回復訳)

とあります。

〜あなたがたは、なぜ❻わたしの言うことを行なわないのか?と言われると、痛みを感じてしまいます。

❻わたしの言うこととは、山上の垂訓の言葉を指しているからです。「右の目がつまづかせるなら、えぐりだせ」「あなたの敵を愛せ」「求める者には与えよ」などを❺実践する力がない自分を見てしまいます。行動力はある方だと思うのですが、み言葉の蓄えも少ないし、他人の目を気にしたり、❻聖霊の言われることに従わず、ペテロのように❼自分の考えで行動したりします。

わかっているけど従えないのが、肉の身体です。

しかし、幸いなのは、垂訓の最後の47-48節で❺行なうための秘訣が示されていることです。

6:47すべて❽わたしの所に来て、❻わたしの言を聞き、それらを❺行なう者はだれに似ているかを、あなたがたに示そう。

〜「すべて❽わたしの所に来て」とは、キリストのみそばに近づくことです。復活したキリストに霊眼をもって近づくとキリストの❻言を聞くことができ、それらを❺行なう者に変えられます。また、「6:48深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる」とは、岩であるキリストの上に基礎を置き土台を据えることです。岩とは主であり、キリストの御臨在を表しています。「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。」‭‭(イザヤ書‬ ‭26:4‬ ‭)

❷ルーラブ:背骨は、キリストと繋がって❺行動することを指しています。

キリストと繋がって❺行動するとは、どう言うことでしょう?

主イエスが、仮庵祭に「私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」と叫んだことを思い出しましょう。生ける水は、ことばとともに、聖霊を暗示しています。このイエスの言葉は、神殿に水を注ぐベート・ハショエヴァの祭りを意識して、ユダヤ人に語りかけたと話しましたが、神殿(心)に水(聖霊)を注ぐのです。

個人的に聖霊バプテスマを受けたときのことを思い出すと、まるでユダヤ人が❷ルーラブを持って振るような動作で身体が跳ね歓喜と口からは「ハレルヤ」が止まらず、眠れなかったのを思い出します。また、聖霊に身体(❺行動)が支配され、いろいろなところへ導かれ、2ヶ月後には、ついに共産圏へ導かれました。不思議なことに、その間、何の畏れもなかったのです。それどころか聖霊の喜び(喜悦)に満たされていました。

❷ルーラブ(背骨)とは、主と繋がり、身体を支え、❻頭なるキリストからの指示に従い❺身体を動かす重要な器官、❽わたし(主)の所に来て、❻わたし(主)の言を聞き、それらを❺行なうために、「❻従い❺行動する」❷「背骨」を構築することの予象です。❽キリストのみそばに近づき、❻言を聞き、❺行なうことですが、それだけでは、完成しません。秘訣は、心に聖霊が注がれ、聖霊によって口が支配されるだけでなく、身体(❺行動)が支配される体験です。

私自身は聖霊バプテスマから、共産圏で捕まるまでは、このような❺行動を支配される状態が続いていました。

残念なことに日本へ帰ってきて、あることで躓き、仕事に追われながら、少しずつもとの生活に戻ってしまいました。

しかし、聖人サンダー・シングは、以下のように話しています。

「キリストと共に3年間歩んできた使徒たちさえ、死者の中から復活された主を認めることができませんでした。***キリストをただの人間や亡霊として捉える限り、わたしたちは主を見分けることができません。祈りの中で霊の目が開かれる時、その時のみ、私たちは主を生けるキリストとして認めるのです。

先月、エルサレムから10キロの地点にあるエマオの村を通った時に、私は、キリストが一緒に歩いていながらそれを見分けられなかった二人の弟子のことを思い出しました。後で、キリストが消えたときに、二人は初めてそれが主であることを知りました。彼らは言いました。

「主と共に歩いていたときに、胸の中に❾燃える思いを感じなかっただろうか」。「❾燃える思い」は、主が臨在された結果でありました。目は見分けられなくとも、胸(ハート)は主を感じ取ります。私たちは、➓祈りを通してのみ感じることができます。主が胸の中に宿るときに、胸は内に燃え上がります。聖霊の❾炎は、この世の水によっては打ち消すことができません。主を見出した人は、黙してはいられず、イエス・キリストについて話し始めるに違いありません。黙っていることは不可能です。」〜以上〜

サンダーは、使徒たちやエマオの途上の二人が復活の主を見ているのに、分からなかったことを指摘して、目は見分けられなくとも、胸(ハート)は主を感じ取り、➓祈りを通してのみ感じることができると言います。主が胸の中に宿るときに、胸は燃え上がり、聖霊の❾炎があれば、炎は消えることはないと語りました。

初心者の祈りは、祈りの最中にあれこれ雑念が入り、背中が痒いとか、何か音がしたとか集中しない時があります。

祈りは、背骨のように頭なるキリストと繋がった真の祈りであるべきです。

 

サンダー・シングは、また祈りについて、次のように言っています。

「ある時、「喜悦,脱魂に入っているときには、妨げないように」と断っていた友人が部屋に入ってきた。私が目を大きく見開いたまま微笑んでいるのを彼は見た。彼は私が脱魂しているとは知らずに声をかけたが、反応しないので、いたく当惑し、後でそれを話してくれた。また、ある時、木の下で脱魂した。意識が戻った時、全身がスズメバチに刺されて大きく腫れ上がっているのを知ったが、私は全くそれに気づかなかった。」

サンダー  は、一日4時間から6時間、両足を組んで座り、両手を合わせて祈り、祈りに入ると喜悦,脱魂(エクスタシィと言っている)し、筋肉はピクリとも動かない。体(❺動作)が完全に制御されていて、長時間わずかな動きさえ見せず、何時間にも及ぶ祈りから抜けだしてきたときにも疲れではなく、顔の上に光があったと言います。また脱魂中、「全身がスズメバチに刺されて大きく腫れ上がっているのを知ったが、私は全くそれに気づかなかった」と言うほど身体の感覚も天へ挙げられていたのです。

これは、サンダーが祈りの中で天界へ登り、祈りは苦痛でなく至福なものになっていたからなのでしょう。まさに、背骨を天の主に繋げる祈りと言えるでしょう。その❷背骨=ルーラブを振りながら喜び踊る祭、スコット(仮庵祭)は、サンダーの体験した喜悦=エクスタシィの予象なのでしょう。

わたしの経験からですが、祈りの主体が自分であり、あれこれ願い求める自分の願望であるとき(このような求める祈りや執りなしの祈りも大切ですが)、疲れる祈りになります。

しかし、サンダーの祈りは、主との交わりが中心であり、喜悦,脱魂(エクスタシィ)であり、背骨を天の主に繋げる祈りとも言えます。その祈りの姿は、もはや自分はここにいない、天の主ご自身と繋がってしまった姿です。

サンダー  は、「言葉に尽くせぬ崇高な雰囲気に包まれるのを感じ、その時、何かが私の心中に語りかけ、次には脱魂状態に入っている。言葉は一切語られず、すべては絵になって見える。いとも容易に、しかも歓喜のうちに、一瞬にして全ての問題が解かれ、頭は全く負担を感じない」と語っています。

蜂に刺されても気づかないほどの喜悦に入ったサンダー。

以前に語った迫害の中、喜悦と平安に包まれていた殉教者カータル・シング。彼は、拷問の最中でも驚くような喜びと平和に包まれていたので、拷問した側は、後でその平和の正体を確かめようと彼の胸をえぐり出したが、肉しか見えなかったと伝えられます。

ルーラブ=背骨を天に繋いでしまえば、そのエクスタシィ(喜悦、脱魂)に、身体は支配され、痛み、苦しみ、疲れも感じないほどの喜びに入ることが可能なのですね。

【霊】聖霊による口舌の支配→聖霊による開眼→【魂】心・魂が神の国の支配に入る→【身体】身体が神の国の支配に入る→内なる人の完成に繋がるのでしょう。

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2021.2.28撮影

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2020/07/27/022525