神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

はっきり見えない理由 〜サンダー シング SS31

以前から、私自身、霊の目で天界がはっきりと見えないことを話してきました。

サンダー   シングは、1922年にローザンヌ市モンべノンでの講演で、はっきり見えない理由について語っていました。

「主は、慌ただしさの中でご自身を現されることはありません。我らが救い主がベツサイダの村にいた時、周囲の群衆の中に、一人の盲人が立っていたと書かれています(マルコ伝8章22節)。この人が隣村の出身者で、その友人たちが癒していただこうと、彼を連れてきたのでした。彼らは男をイエスのもとに導き、主は彼の手を取って、群衆をあとにされました。妨げとなる群衆の中では、彼を癒すことができなかったのであります。それから、主は、我々の好まないことをされました。盲人の目に❶唾を吐きかけたのであります。私たちがそこにいれば、信仰を失ったかもしれません。すぐに嫌悪感を抱き、「この人は言葉で癒せるのに。触れずにに癒せるのに」と思ったことでしょう。

しかし、そこには理由がありました。唾の中には薬効成分はなかった。しかし、キリストは、その男が十分な信仰を持っているかどうかを確かめたかったのであります。盲人は信仰を持っておりましたが、十分な信仰に欠けていました。そこで、目は半分しか開きませんでした。「何が見えますか」と聞かれて、男は「人々が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と答えました。しかし、人は「木のよう」ではありません。彼の目は半開きになっただけですべてを❷くっきりと見られたわけではありませんでした。そこで、キリストがもう一度目に触れる必要がありました。初め、この人は、キリストが癒せることを十分に信じておりませんでした。それで、半分の視力しか得られなかったのですが、あとで完全な信仰を持ち、❷完全な視力を得たのです。

この盲人と似たような人々は今もいます。目は開いていても、彼らの視力は半分しかありません。すべてを❷はっきりと見ることができずにいます。人々が木のように見えたこの盲人と同じく、多くのクリスチャンはキリストが神であることを知らずにいます。キリストが、完全な視力を与えるために彼を家の外に連れ出されたように、私たちもまた、祈るために❸一人きりの静かな時を持たなければなりません。そこにおいてこそ、❷完全な視力をいただくことになるのです。

西洋の人々は、あまりに忙しすぎて、神と出会う時間を持てずにいます。忙しいのもいいでしょう。しかし、神と❸静かな交わりの時を持つことが必要です。それがなければ、わたしたちは神と出会うことはなく、霊的なことを理解することができません。多くの人は、イエス・キリストが今も実在すること、主が救い主であり神であることを理解していません。それは、人々が忙しすぎ、❸祈る時間を持てずにいるからです。主は、祈りを通してしか自ら現されることはありません。」〜サンダー   シング

サンダーは、❷はっきり見るためには、祈るために❸一人きりの静かな時を持たなければなりませんと語っています。

私の目がはっきり見えないのは、群衆をあとにし❸一人きりの静かな時を持たなければならないのでしょう。そこで祈り、主に御声をかけていただくことが大切なのでしょう。

❶唾は、主の口から出る御言葉を暗示します。

御言葉の実際の成就を見ることで、信仰が増し加わり、❸一人きりの静かな祈りの中で唾がかかるほどの親密な主との時間を過ごしたいのです。

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2021.3.13撮影

桜が芽吹き、すぐ開花しそうです。