神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

トマスの福音書49① 〜光から来た

継続してトマスの福音書を訳しています。

資料としては、「Coptic/English.Translation of The Gospel of Thomas.Revised November 22, 2002.Copyright ã1997-2002, Michael W. Grondin. 」を参考にし、解読しました。そのため、一般の日本語の解説書より、全114節の番号割り振りが、何節かずれています。今回、このブログで扱う49節は、一般には50節〜53節として紹介されています。49節は、比較的に長い節ですので、いくつかに分けて訳していきます。

なるべく最初は原文に忠実に「直訳」を心がけ、四福音書の共通項を参考に、ことばの意味を「解読」し、最後は解釈を含めた「意訳」を試みています。

49①

JS49*Sa-id-this: If-they-should-speak to-you(pl) this- "Have-you(pl)-come-into-being out (of) where?" Speak to-them this- "We-have-come out of-the-light, the-place which-the-light came-into-being there, outward by-his-hand himself; he-stood to-his-feet,

and he-appeared forth in-their-image." > If-they-
should-speak to-you(pl) this- "You(pl) are (him)? ", speak this- " We (are) his-sons, and we (are) the-chosen of-the-father who-lives." > If-they-should-ask-yourselves this: "What is the-sign of-your(pl)-father which-is-in-yourselves?", speak to-them this- "A-movement it-is, and-a-repose." 

49①直訳

JS49 イエスはこう言った:もし彼らがあなたたちにこう言ったら、「あなたたちは、どこから出てきたのですか?」、彼らにこう言いなさい。「わたしたちは、❶光から出てきた、その場所は、❶光がそこに現れ、彼(光)自身が外へ、彼(光)の足で立った、そして、彼(光)は彼らの❷イメージ(像)の前に現れた。」もし彼らがあなたたちにこう言ったら、「あなたたちは、彼(光)なのか?」、彼らにこう言いなさい、「わたしたちは、❸彼(光)の息子たちで、わたしたちは、❹生ける父の選ばれたものだ。」

もし、彼らがあなたたちにこう聞くなら、「あなたたち自身の中にいるあなたたちの父の❺しるしは、何ですか?」、彼らにこう言いなさい、「それは❻動きで、そして❼安息です。」

 

難解な箇所ですので、キーワードで考えていきます。まず「❶光」です。

❶光

ヨハネ伝から、❶「光」を探すと、

ヨハネによる福音書‬ ‭1:1-4‬ ‭

「初めに❽言があった。❽言は神と共にあった。❽言は神であった。

この❽言は、初めに神と共にあった。 万物は❽言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 ❽言の内に❾命があった。❾命は人間を照らす❶光であった。」(‭‭新共同訳‬‬)

ヨハネ伝1:1-4‬ ‭

「その❶光は、まことの❶光で、世に来て❽すべての人を照らすのである。」(新共同訳‬‬)

〜❶光=❽言=❾命=人間を照らす❶光とあります。光線のようなただの「光」ではなく、❾命の光であり、暖かな❽言葉のように愛に満ちた光。生命体が発する❶光なのでしょう。それで「まことの光」と言っているのです。

ヨハネ伝3:21

しかし、➓真理を行なう者は❶光に来る.それは、彼の⓫行ないが、神にあってなされたことが明らかにされるためである。(回復訳)

ヨハネ伝8:12‬ ‭

イエスは再び言われた。「わたしは世の❶光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、❾命の光を持つ。」」(‭‭新共同訳‬‬)

ヨハネ伝では、初めに❽言があり、万物は❽言によって成った。❶光は、❽言の内にあり、❾命であり、人間を照らすものだと書いてあります。「➓真理を行なう者は❶光に来る」ともあります。そして、イエスは、ご自身を世の❶光である。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、❾命の光を持つ」と言われるのです。

〜❶光=❽言=❾命=人間を照らす❶光=イエス=世の光。

➓真理を行う者は❶光に来る。

エスに従う者は暗闇の中を歩かず、❾命の光を持つ。

 

次のキーワード「❸光の息子たち(光の子)」についてヨハネ伝から見ていきましょう。

ヨハネ伝 12:34-43

12:34群衆は彼に答えた、「キリストは永遠にとどまり続けると、わたしたちは律法から聞いています.どうしてあなたは、『人の子は上げられなければならない』と言われるのですか? この人の子とはだれのことですか?」
12:35イエスは彼らに言われた、「なおしばらくの間、❶光はあなたがたの間にある。❶光がある間に歩きなさい.それは、暗やみがあなたがたに打ち勝つことのないためである.暗やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。
12:36あなたがたは、❶光がある間に、❸光の子となるために、❶光の中へと信じなさい」。
 イエスはこれらの事を語ると、立ち去って、彼らから身を隠された。
12:37彼が彼らの前で多くの❺しるしを行なわれたのに、彼らは彼の中へと信じなかった.
12:38それは、預言者イザヤが言った言が成就するためであった.「主よ、だれがわたしたちの伝えたことを信じましたか? 主の御腕はだれに現されましたか?」
12:39こうして、彼らは信じることができなかった.なぜなら、イザヤはさらに言っているからである、
12:40「主は彼らの目を⓬盲目にし、彼らの心をかたくなにされた.それは、彼らが⓭目で見ず、心で理解せず、立ち返らず、わたしが彼らをいやすことがないためである」。
12:41イザヤがこう言ったのは、彼の⓮栄光を見て、彼について語ったからである。
12:42それにもかかわらず、役人たちの多くが彼の中へと信じた.しかし、パリサイ人をはばかって、彼を告白しなかった.それは、会堂から追放されないためであった.
12:43彼らは⓮神の栄光よりも、⓯人の栄光を愛したからである。(回復訳)

〜❶光(イエス)がある間に、❸光の子となるために、❶光(イエス)の中へと信じなさい。
 イエスが彼らの前で多くの❺しるしを行なわれたのに、多くは彼の中へと信じなかった.
主は彼らの目を⓬盲目にし、彼らの心をかたくなにされた.それは、彼らが⓭目で見ず、心で理解せず、立ち返らず、わたしが彼らをいやすことがないためです。役人たちの多くがイエスの中へと信じたが、パリサイ人をはばかって、イエスを告白しなかった。彼らは⓮神の栄光よりも、⓯人の栄光を愛したからだと言っています。

まとめると、

❸光の子=❶光(イエス)の中へと信じる者
= イエスが彼らの前で行なった❺しるしを信じる者

対象的に暗闇の子=目を⓬盲目にし、心をかたくなにし、⓭目で見ず、心で理解せず、立ち返らず、いやされない=人をはばかって、イエスを告白しない=⓮神の栄光よりも、⓯人の栄光を愛する者

後半部の「それは❻動きで、そして❼安息です」とは、どういう意味でしょうか?

わたしは、以下の聖句を思い浮かべました。

マタイによる福音書‬ ‭11:27-29

「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を⓭知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに❻来なさい。❼休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの❻軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは❼安らぎを得られる。」(新共同訳‬‬)

上の聖句を代入すると「❻動き(動)」は、イエスのもとに❻来てイエスと❻軛を負い、イエスに学ぶこと。「❼安息(静)」とは、❼休み、❼安らぎが得られる「しるし」を指すのでしょう。

 

意訳してみます。

49①意訳

JS49 イエスはこう言った:もし彼らがあなたたちにこう言ったら、「あなたたちは、どこから出てきたのですか?」と、彼らにこう言いなさい。「わたしたちは、❶光から出て来た、❶光がそれ自体で生まれた場所で、彼(光)の足で立った、そして、彼(イエス)は彼らの❷イメージ(像)として前に現れた。」

もし彼らがあなたたちにこう言ったら、「あなたたちは、光なのか?」と、

彼らにこう言いなさい、「わたしたちは、❸彼(光)の息子たちで、わたしたちは、❹生ける父の選ばれた者だ。」

もし、彼らがあなたたちにこう聞くなら、「あなたたち自身の中にいるあなたたちの父の❺しるしは、何ですか?」と、

彼らにこう言いなさい、「それは❻動き(動)であり❼安息です(わたしのもとに❻来て❻軛を負い、学ぶことで❼安息が得られること)です。」

以上

もう一言、光の子の特徴があります。それは、「⓬盲目ではなく⓭目で見ることができる」それも肉眼で見ることではなく、心で理解するのです。それは心眼とでも言うのでしょう。心眼を開く光の子は、父から子に任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を⓭知る者はいませんと書いてありましたね。

心眼を開いた光の子とは、旧約の先見者に匹敵するのかもしれません。

サムエル記上‬ ‭9:9‬

「昔、イスラエルでは神託を求めに行くとき、先見者のところへ行くと言った。今日の預言者を昔は先見者と呼んでいた。」(新共同訳)

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