神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

エゼキエル戦争の準備も、、

確かに、預言成就が近づきつつあるように見えます。

https://youtu.be/bS4XItoy-PM

 

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なかなか、まとまっていますが、解釈がイマイチ↓

https://youtu.be/Fl0_LDRMsa8

 

「主の言葉がわたしに臨んだ。 「人の子よ、マゴグの地のゴグ、すなわちメシェクとトバルの総首長に対して顔を向け、彼に預言して、 言いなさい。主なる神はこう言われる。メシェクとトバルの総首長ゴグよ、わたしはお前に立ち向かう。 わたしはお前を立ち帰らせ、お前の顎に鉤をかけて、お前とその全軍、馬と騎兵を連れ出す。彼らは皆完全に武装した大集団で、大盾と小盾を持ち、皆剣を持っている。 ペルシア、クシュ、プトが彼らと共におり、皆、盾を持ち、兜をかぶっている。 ゴメルとそのすべての軍隊、北の果てのベト・トガルマとそのすべての軍隊、それに多くの国民がお前と共にいる。 備えをせよ。お前も、お前のもとに召集されるすべての集団も備えをせよ。お前は彼らの監督となれ。 多くの日の後、お前は呼び出され、また、多くの年を経た後、一つの国を襲う。それは長く荒れ廃れていたイスラエルの山々で、そこには、剣の恐れから解放され、多くの民の中から集められた民がいる。彼らは多くの民の中から連れ出されて、今は皆、安らかに暮らしている。 お前は嵐のように上って来て、地を覆う雲のように襲いかかる。お前とお前の全軍、お前と共にいる多くの民は。 主なる神はこう言われる。その日、お前の心に言葉が浮かぶ。お前は悪い計画を立て、 そして言う。『わたしは囲いのない国へ攻め上る。城壁もかんぬきも門もなく安らかに生活している静かな国を襲う』と。 お前はかつて廃虚であったが、今は人の住んでいる国、諸国民のもとから集められ、国の中心の山々に住み、家畜や財産を持っている民に対して手を上げ、戦利品を奪い、ほしいままに略奪しようとしている。 シェバとデダン、タルシシュの商人たち、およびその富豪たちはすべてお前に言う。『お前は戦利品を奪うために来たのか。お前はほしいままに略奪するために集団を組んだのか。金銀を運び去り、家畜や財産を手に入れ、多くの戦利品を奪おうとするのか』と。 それゆえ、人の子よ、ゴグに対して預言して言いなさい。主なる神はこう言われる。わが民イスラエルが安らかに暮らしているとき、お前はいきり立つのか。 お前は北の果ての自分の所から、多くの民を伴って来る。彼らは皆、馬に乗っている大集団、大軍団だ。 お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。わたしはお前を、わたしの地に連れて来る。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らがわたしを知るようになるためである。 主なる神はこう言われる。お前は、遠い昔、わたしが僕であるイスラエル預言者たちを通して語ったその者ではないか。この預言者たちは、長年にわたって、彼らに向かってわたしがお前を来させる、と語った。 ゴグがイスラエルの地を襲う日、まさにその日に、と主なる神は言われる。わたしの憤りは激しく燃え上がる。 わたしは熱情と怒りの火をもって語る。必ずその日に、イスラエルの地には大地震が起こる。 海の魚、空の鳥、野の獣、地の上を這うすべてのもの、および地上のすべての人間は、わたしの前に震える。山々は裂け、崖は崩れ、すべての城壁は地に倒れる。 わたしはすべての山の上で、ゴグに向かって剣を呼び寄せる、と主なる神は言われる。人はおのおの、剣をその兄弟に向ける。 わたしは疫病と流血によって彼を裁く。わたしは彼とその軍勢、また、彼と共にいる多くの民の上に、大雨と雹と火と硫黄を注ぐ。 わたしは自らの偉大さと聖とを多くの国々の前に示す。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」
‭‭エゼキエル書‬ ‭38‬:‭1‬-‭23‬ 新共同訳‬
https://bible.com/bible/1819/ezk.38.2-23.新共同訳

日曜日のご臨在〜神に感謝せよ

「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭19‬:‭34‬ 新共同訳‬
https://bible.com/bible/1819/jhn.19.34.新共同訳

 

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2023.1.22撮影

兵士は白内障を患っていたが、槍を刺した際に滴ったイエスの血がその目に落ちると視力を取り戻した。それを契機として彼は洗礼を受け、後に聖者(聖ロンギヌス)と言われるようになったという。

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質的な腐敗 この国は、、、

 

https://youtu.be/RtL3bOVI7ow

 

藤井聡 教授の義憤を我々も持たないと、我々は、利権優先の医療や官僚や政治家によって殺されてしまう。

この国は、人の命より、利権に乗っかってる連中が、まともな検証もできないということでしょうか。

 

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宗教について サンダー・シング SS33

聖なる教え  サンダー・シング の体験した宗教

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サンダー・シングは、ヒンズー教の一派であるシーク教の家に育ち、小さい頃から様々な宗教書を読みあさり、真の救いを求めていました。7歳の頃には、ヒンズー教聖典バガバッド・ギーターを暗唱し、15歳の頃には、すでにイスラム教の聖典コーラン、インドの聖典ウパニシャッドヴェーダ、シャーストラ、グラント、仏教の聖典などを読破していました。しかし、魂が満たされなかったのです。そして、追い詰められて「ああ、神よ、もし本当にいるなら、私に正しい道を示してください。そうすれば私はサドゥーになりましょう。さもなければ死にます」と自死を覚悟したとき、自宅二階屋で、光が部屋を照らし、輝く光輪が床の上に広がり、慈愛に満ちた神のような方が現れたと言っています。

釈迦かクリシュナか、インドの神仏かと思いましたが、ヒンドスタニ語で「お前は、なにゆえわたしを迫害するのか。わたしはお前のために十字架上で、我が身を捨てたことを思い起こせ」と響きわたったと言います。

サンダー  は、その方の両手、両足、脇腹に傷があるのを見て、二千年前に死んだイエス・キリストが目の前に現れたと悟ったと語っています。サンダー  が敵視して、聖書を破り迫害していたキリスト教の神が現れたのでした。

イエス・キリストは、死んでない。この方は、イエスご本人だ」。サンダー  は、イエスの足元に平伏したその瞬間、彼の全ての存在が変えられた。彼の霊魂を言い知れぬ平和と歓喜で満たした。サンダー  は、「ヒンドスタニ語、英語、ウルドゥー語でも、あの時の至福の気持ちは、決して言い表せない」と後日、述懐しています。そのときから、彼は、迫害していたキリスト教のイエスに魅了され、キリストの弟子となりました。彼は、シーク教の家族から殺されそうになり、家を出るのでした。

 

インタビューに対する答えのかたちで、サンダー  が宗教について語った内容

 

Qどの宗教も同じようなものではないですか。どれも善行を解いているのではありませんか?

「確かに。だが、一つだけ大きな違いがある。他の宗教は、できるだけ善を行え、そうすれば善人になると教えているのに対し、キリストは、善くなりなさい、そうすれば善を行えるようになる、と教えている。善は、善なる心から自然に出てくるからだ。心の変化がまず最初に来なくてはならない」

Q釈尊とその教えについてはどう思われますか?

釈尊は神秘家ではなく、倫理的教師である。彼の教えの中には神について一言もないからである。これには驚かされる。彼はニルヴァーナ(涅槃)、つまり欲求の止滅を説いたが、救いは欲求の止滅にあるのではなく、欲求を満たすことにある。渇きを扱う正しい方法は、それを殺すことではないーーそれは死を意味するーー満たすことである」

「私は、ヒンズー教の修行僧にこのように声をかける。『あなたは自分を苦しめたいがためにサドゥーになった。私は奉仕するためにサドゥーになった。私は人から苦しめられる事はあっても、自分を苦しめたりはしない』。インド人は、神の満ち足りを発見する前に世を捨て、自分を否定する。彼らは、自己否定のために自己否定をするが、それは平和を見出したからではなく平和を勝ち得たいがためである」

「ヨーガ行は、私にはあまり役立たなかった。ある程度まで助けになったに過ぎない。その助けも霊的なものではなかったので、自分には無用なものとなった。イエスが、精神集中を実修せよとも、霊的修行をせよとも言われなかったのには、いつも驚かされていた」

「自分がヒンズー教徒だった頃は、毎日、瞑想に何時間も費やした。それは、自分の霊的能力を育てる助けをしたかもしれないが、霊的実在を理解することはなかった。ある種の観想の意味するものは知ったが、祈りの経験がなかった。この両方を実践するときに、神自らがご出現になったのである。長い期間瞑想に費やしても平和は得られなかった。祈り始めたときのみに神の臨在を感じたのである。イエスに捧げられるただーつの祈りは、どのような瞑想にも勝って私を助けた。

少し前に、私は瞑想についてラビンドラナート・タゴールと話をしていた。瞑想を通して多くのことを学べるが、霊的事柄を理解するにはそれ以上のことが必要である、と私は話した。キリスト教において、私はごく単純な方法ー祈りーを知った。それは、どんな時にも通れる道、最も単純な道である。祈りを通して、私たちは神を知るようになる。祈りは、瞑想中に受けたものの中から、真実なものと無用なものとをふるい分ける。それは、真の祈りの中で、神が魂の最奥部、最も敏感な部分ー良心ーを照らし出して下さるからである」〜サンダー・シング 「聖なる教え 宗教について」

確かに、祈りに応える神がいる。サンダー  が経験した、不思議な救い。そのキリストに出会う体験は、キリスト者の信仰の基礎であることは、間違いないのです。パウロしかり、手島郁郎師しかり、キリストの現れは、私にとっても人生を変える驚くべき喜悦と平安の体験だったのです。