神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

敬愛する師11 ~聖霊の磁場より

啓示を受け、2015年5月にFaceBookで始めた投稿記事が膨大になり、FBでは、うまく文章を打てなくなりました。しかたなく自分でブログを開設します。過去の記事を入れながら、神の御心にそって開示していきます。よろしくお願いします。

 

敬愛する師の話より

「 ひとりで深く祈ることも大切だが、少数でも二,三人心を合わせて祈る事は大きな力です。少数よりも、心を同じくする多数ならば、その祈りは、顕著な効験を持つでしょう。だからと言って、大集会が良いのではない。雑然たる信仰を持って集われている大教会には、大きいだけに、互いに相反する心の波動がいっぱいに衝突しあって混雑しているので、たちまち良い信仰の魂でも、その渦に巻き込まれて、その光を奪われ、向上の力を削られてしまうことがあります。おそらく弱い信仰の小さい群れでも、もし心をひとつにして、熱心に祈りに祈るならば、不思議に心燃やされます。小さな1ボルトの電池の懐中電灯は暗いけれども、一つの電球に四個同時につなげば、大変に明るく照ります。同様に小さな群れでも、心をひとつにして祈りに祈れば、やがて、そこに聖霊の磁場が形成されて光りだし、ついには大きなリバイバルの炎を呼ぶものです。

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 東京、大阪のような先進の大都市や横浜や長崎など開港場には、外国宣教師が多数やって来ていたので、そこでは盛んに布教せられたろうから、多数の信者ができてきそうなものだが、しかし、そうではなかった。どんなに多く宣教師がやって来て努力しても、聖霊の磁場が炎上しない限り、伝道は労多くして効少なく、水泡に帰してしまうのです。その好例として、熊本や札幌には宣教師は一人もいなかった。札幌農学校長クラーク大佐や熊本洋学校長ゼーンズ大尉は、ともに平信徒で、一軍人でしかなかった。しかし素人であっても熱烈な祈りの人でありました。その祈りの火が、まもなく、青少年の魂を炎上させてリバイバルとなったのです。」~以上
 大会衆での集会で天の門を開く難しさについて、師も同様に感じられていたことが、痛いほどにわかります。
※真珠門と基礎石

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