神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

シャカイナ グローリー 神の栄光の光を3

過去の証詞より  ~臨在の中での神との対話~  

 2015年10月11日の大手町での集会は幸いでした。祈りの最中に初めて粘っこい臨在(Shekinah)の感覚を得ました。なるべく霊的な兄弟たちの近くに座って祈っていたからかもしれません。たしかに一言でいうと粘っこい周辺の感覚でした。
 以前、2013年にある教会での集会中に深い賛美と礼拝に入り、強い臨在に死にかけたことがあります。神のせまりに息ができなくなるくらいで気を失いそうになったのです。「主よ死んでしまいます」と言うと、幻視していた光の門が閉じ、臨在が消えました。その聖なる臨在にこのままでは、気を失って本当に死ぬと思いました。そのときは聖なるShekinahでありました。天国の門が開き、神(YHWH)自らが強くせまられた感じだったのです。

 出エジプト記28章に大祭司の服装について書いてあります。
「あなたはまた、エポデに属する上服をすべて青地で作らなければならない。 中略 すなわち❶金の鈴にざくろ、また金の鈴にざくろと、上服のすその周囲につけなければならない。アロンは務の時、これを着なければならない。彼が聖所にはいって主の前にいたる時、また出る時、その音が聞えて、❷彼は死を免れるであろう。」出エジプト記28:31-35
 このエポデの裾には、❶金の鈴とざくろが交互に取り付けられ、大祭司が動く時、この鈴が鳴るようになっていました。それは鈴の音がしなくなったら、大祭司は❷倒れている可能性があるからです。 伝承によれば、大祭司が至聖所に入る時、ひもで結ばれて入ったようです。それは、万一大祭司が至聖所で主に打たれて死んでしまっても、ひもを引っ張って引きずり出せるようにするためでした。それは、旧約時代、大祭司しか入れない至聖所で、強い臨在の中で、実際に死んでしまう大祭司がいたということです。そうでなければ、こんなことわざわざしません。
 レビ記16:1-2には、アロンのふたりの子が至聖所で死んでいます。そのあとで、神がモーセに言われたことが書いてあります。
「アロンのふたりの子が、主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに言われた、『あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい。彼が死を免れるためである。なぜなら、わたしは雲の中にあって贖罪所の上に現れるからである』。」
 聖なる神 YHWHの臨在は、そのように強いものです。至聖の存在は、世俗的なもの、肉的なものに対して強い聖化をかけるので、臨在の前に焼かれたり、死んでしまうものがあるのです。
 
 しかし、今日は集会の全員での祈りの中で粘っこい臨在を短時間だが感じることができたのは、幸いでありました。涙が出ました。しかし、聖さと言う点では、以前とは少々違う感じでした。まだ聖なるShekinahというよりも、強い祈りのゆえに神 YHWHの意識が周辺に現れた感じでありました。確かにここでは霊の人がたくさんいることもわかりました。

 以前に記事に書きましたが、臨在は、われわれの周囲に現れる聖なる存在であります。天が開けて臨在が来ると、肌で感じる場合もありますが、大概の人は聖なる存在に触れ、悔い改めの心や畏怖心のため涙が出ます。また、癒しや幻や啓示を与えられる人もいます。
 聖霊の満たしとは違う状態ですが、聖霊経験者が異言で祈ったりすると、天が開かれ、聖なる意識や、YHWHご自身や、イエスが霊として天使を引き連れてやってくるのを感じます。それは、実際に臨在が来ればだれでも体験できます。
 未だ臨在とは何かも知らないクリスチャンが多いのですが、敬愛する師は、60年も前にShekinahということばを使ってお話しされていたのですから、驚嘆です。あらためて師の御国の体験がいかなるものであったか、学ぶところ大であります。

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