神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

主の祈り その2  ~全人類の執り成しのために

主の祈りについて、続きを書きます。

《主の祈り》文語訳

マタイ伝6章9節ー13節より

この故に汝らは斯く祈れ。

「❶天にまします❷我らの父よ。
❸ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
❹御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
❺みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。

❻我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
❼我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
❽我らの罪をもゆるしたまえ。
❾我らをこころみにあわせず、
❿悪より救いいだしたまえ。」

(⓫国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。アーメン。)

 

 昨年6月17日、啓示の中で、主の祈りについて示されました。この主の祈りはパーフェクトな祈りなのです。また真の礼拝手順も示しています。

マタイ伝6:9~13の《主の祈り》から意味を解釈したいと思います。それぞれの主な意味は、次のようです。

 まず、この祈りの主語は❷「我ら」であることを先に伝えました。「我ら」とは、広く「全人類」を指し、この祈りは、天の父なる創造神と全人類を結びつける祈りと解釈できます。続きから書きます。

 ❻「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」の「日用の糧」とは、二つの意味があります。飢えた者には、日ごとの食糧でしょう。また、心が飢えた者には、イエスの御からだであり、霊的マナ「み言葉」であるのでしょう。ここも主語は「我ら」となっています。つまり、全人類に対する執り成しです。全人類を見るとき、飢えている途上国の国民がおり、心がすさんでしまった国民もいます。天父に食糧やみ言葉を求める祈りをすべきです。

 また、イエスは、糧(bread)についてヨハネ伝で説明しています。

「わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。

わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。ヨハネ6:48ー51

 「糧(bread)」とは、天から下ってきた「イエスご自身」であり、ことばが神となったイエスご自身であります。我らが生活の中で毎日必要になる「みことば」であり、祈りの中で聞く「主の御声」でもあります。私は、この「我らの日用の糧」とは、我らのTPOに合わせたイエスご自身から語られる御声(Rhemaレーマ)であると思っています。み言葉から、心に瞬時にやってくる「主の御声」です。

 あなたの周囲の人たちのことも心に浮かべて、レーマとしてのみ言葉が与えられるように祈ることです。

 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」ヨハネ6:35

 原文では❼❽は、日本語訳とちがって入れ替わっている。まず❽が先です。

❽「我らの罪をゆるしたまえ」。まず自分の罪や負債を赦してもらうことです。それも自分だけではない、我ら全人類の罪を赦してもらうことが必要です。罪や天国に対する負債の赦しを祈ることこそ、人類救済に不可欠な祈りであります。

 イエス=キリストの十字架を見上げて祈ることです。その血潮を見上げて祈ることです。この祈りが、全人類の罪・負債の執り成しの祈りになります。この負債は、神の子イエスの贖罪によって赦されたのです。それを受けるためには、全人類の悔い改めを祭司のように代表して祈ることです。「私の罪」ではなく「我らの罪」の赦しを請うのです。

❼「我らに罪をおかす者を我らもゆるします」。日本語聖書では、「我らがゆるすごとく」と書いていますが、神の贖罪は、罪びとが何かすれば…という条件などいりません。神が赦してくれたから、我らも隣人の罪や負債を互いにゆるしあえると言っているのです。「そのような赦す心を与えてください」と思いながら祈るのです。その赦すべき隣人とは、敵であり、迫害する者であるのです。

 「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」(マタイ5:44-45) このことばからも、「我ら」とは全人類であり、神の御心は、全人類の救済であることがわかるでしょう。敵の為に祈る愛があって、父の子となるのです。

❾「我らをこころみにあわせず」。これは大切な祈りです。この世界にはたくさんの人が、試練・試みに会い、苦悩の中に過ごしています。その試練からの解放を祈り、死に瀕している迫害されている同胞や殉教者のために祈ることです。また、キリスト教徒だけでなく、たとえ敵であっても、苦難にある虐げられているすべての人々のためにも祈るのです。

❿「悪より救い出したまえ」。我らの罪が赦されたのなら、もう罪を犯さないために悪から救い出してもらう祈りが必要です。悪しき者からの解放も祈り、宣言するのです。試みや悪から救い出してもらう祈りは、大切です。試みに会うなら、それに耐えられないような弱い我らのことを、主イエスはご存知でした。我ら全人類が、試みに会わず、悪の支配から救い出され、「神の支配」へと移行させられることを祈るべきです。 

⓫「国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」。栄光を神に返す=神の御国と御力と御栄光の永遠の顕現を感謝し、栄光は主にあるようにと確認する祈りです。⓫については一部写本で付加されるのみで、後世の付け足しである(毒)と見ます。ですから、口語訳には、入っていません。(注意)ここで栄光は神のものですが、御国(単数)と御力はお返ししてはいけません。神の国とその力の顕現のために、イエスはこの世に来たのですから、父の御国と父の御力がわれらとともに永遠にあることを祈ってください。また、主の祈りでこの部分を一斉に祈るなら、この世の国と権力がYHWHのものであることを宣言してください。この世を神の支配に移すことを願うのもいいでしょう。

 この「主の祈り」は、神が人類に教えられたパーフェクトな祈りです。こんな力ある祈りはありません。また主語がすべて「我ら」であるのは、全人類への執り成しの祈りでもあるのです。この祈りこそ、主ご自身が「このように祈りなさい」と命じられた祈りであり、この祈りこそ神が人類に教えられた神との通信手段であり、御父の心を映した祈りであり、礼拝手順の基礎でもあります。「こう祈りなさい」とおっしゃっているのですから、礼拝では「主の祈り」を祈るべきです。わたし個人での祈りでは、本当に恵まれ、「主の祈り」の中から本を一冊書けるくらいの啓示をいただいています。

 祈りの力は、すごいものです。ゲッセマネの万国民の教会へ行ったとき、主イエスの祈りの心が伝わってきて、涙があふれ立っているのもままならない状態でした。2000年前、十字架にかかる前の主の祈りが今も聞こえます。

 

※イエスがいつも祈っていた ゲッセマネの岩。

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