今朝、悪夢で目を覚ましました。夢の中で、大切にしていたバイクを盗んで壊した暴走族の若者に怒りをこめて叫んでいる自分がいました。家に帰る方法がなくなり、「殺してやりたい」とも思った自分がいました。夢の中のことです。
人の心から出ることは、悪なのでしょうか。聖霊に心を満たされなければ、自分の心には良いものなど何一つない。実際にバイクを盗まれたわけではない。しかし、夢を見ているときには、それが本当のように思えました。素の自分には、まだ外的要因で何か人を赦せない怒りがわく自分があることがわかりました。この怒りが、人を狂わせるのでしょう。朝の祈りで沐浴し聖霊の支配を再度求めました。
パレスチナ人が思い浮かびました。今も顕著なイスラエルとの対立の中、目の前で子どもや家族が殺されたパレスチナ人は、怒りをもってイスラム過激派に入り戦場へ行くのでしょう。もし私がパレスチナ人の若者であったら正義のためにそうしているでしょう。
ガザ地区やヨルダン川西岸のパレスチナ人は、聖書に出てくるペリシテ人と混同する人がいますが、直接関係はありません。東ローマ帝国統治下のユダヤに残留していたユダヤ人やサマリア人などの子孫がイスラム化し、言語的にもアラブ化した人たちです。アーリア系でユダヤ教に改宗した人々よりも、血統的にはもともとのユダヤ人に近い人たちです。しかし、イスラム教徒に支配され、イスラム教に改宗したので、もはやユダヤ人とはよべないのです。それでも彼らは、アブラハムの血を引く末裔です。
わたしは、村上春樹氏がエルサレム賞の授賞式で、イスラエルの人たちを前に語ったスピーチが好きです。
村上春樹氏スピーチより(2009年)
真実をお話しします。日本で、かなりの数の人たちから、エルサレム賞授賞式に出席しないように、と言われました。出席すれば、私の本の不買運動(ボイコット)を起こすと警告する人さえいました。これはもちろん、ガザ地区での激しい戦闘のためでした。国連の報告では、封鎖されたガザ市で1000人以上が命を落とし、彼らの大部分は非武装の市民、つまり子どもやお年寄りであったとのことです。
受賞の知らせを受けた後、私は何度も自問自答しました。このような時期にイスラエルへ来て、文学賞を受けることが果たして正しい行為なのか、授賞式に出席することが戦闘している一方だけを支持しているという印象を与えないか、圧倒的な軍事力の行使を行った国家の政策を是認することにならないか、と。 (中略)
「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。
そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。
おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?
この暗喩が何を意味するのでしょうか?いくつかの場合、それはあまりに単純で明白です。爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾は高い壁です。これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たちが卵です。これがこの暗喩の一つの解釈です。 (後略) 以上
イスラエルでは、昨年来、街頭でテロが頻繁に起きています。軍や警察の対応も過激になっていきます。憎しみの連鎖の中にドロ沼化しています。こんな世の中にうんざりです。
マタイ9:11-13より
パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
イエスの救いの基本は、「あわれみ」なのですね。自分は正しいと言っている義人は天国に入れそうもありません。わたしのような罪びとも憐れみを受けることが可能なのでしょうか。
www.amnesty.or.jp
※先般イスラエルと武器開発の協定を結んだ日本。これからは、日本製の武器をイスラエルが使うことになるか心配です...