レーマを読み解く6で紹介した内容を、師が語っていました。
どうしたら容易に神の国に近づくでしょうか?
敬愛する師曰く:信仰の目的は人間が『内なる光』を発見することにある。人間の尊貴さはこれにある。「身の灯は一つの目(ホ・オフサルモス)なり。この故に、汝の目が純一ならば、全身、光被されるであろう」(マタイ伝6:22私訳)。
まず眉間に一つの目がひらかれて、見えざる世界を意識し出すことである。この意識は、前額から松果腺を通じて、間脳に感応する仕掛けになっている。祈るときに、まず額に何か熱く光るような重圧感があれば、もう良い事が始まっているのだ。地上にも、少数だが目覚めた哨人(みはり)も出初めている。
「もし汝の内の光、暗闇ならば、その暗黒、いかばかりぞや」(マタイ6:23)。信仰とは、『内なる光』の発見である。信仰の目さえ開けたら、魂は天界から強い印象を受ける。この眩いばかりの宇宙光=キリストの霊光下に、見るもの、聞くもの、全く想像に絶して、明確な認識と強烈な印象を受けるものだ。
見えなかったものがどんどん見えだし、見えていたはずのものが、主の光のために、全然、存在を消してしまう。見えていたと思ったものは、暗い影でしかなかったのだ。「光は闇を駆逐する」。暗黒は非存在なのだ。非存在を存在する、と意識していたことが、とんでもない錯覚だよ。キリストとは『義の太陽』だ(マラキ4:2)。キリストの霊光のまばゆさよ。この霊光を借りさえしたら、どんなことがらでも見通しだ。どんな問題だって、もう結論が浮かび上がってくる。どんな事件だって、その真相が直覚できるものだ。レントゲン光線が肉体の内部、肺の病巣をさらけ出して見せるように。
~以上、師の言葉より。
師は、この世の問題や事象を見通せる視力をお持ちのようでした。私も、若干ですがこれからのことを知らずに語っているようなところがあるようです。先日、「去年話していたことが実際になるのはどうしてですか。どこで情報を得ているのか。」と退職された方に質問されました。自分では意識していないのですが、そうなんだそうです。
師のように焦点がはっきりと、鮮やかに天を見ることができたらありがたいのですが。どうも自分はまだ近視眼的な天の見え方でありますので、主に求めています。こんな者も主のご恩寵で少しは天を見れるのですから、皆さんもぜひ祈り求めて天の窓を開き、『内なる光』をいただいてください。
「31ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。
32恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。……………
34あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」(ルカ12:31-34)