過日、自分とは違う考え方の人や群れを、こんな事があったとか、あら捜ししてネット上でアバク者がいることについて書きました。アバク者とは、サタンの特性(黙示録12:10)を持っています。
また、そのような者は、荒野で主イエスを誘惑したサタンのように、前後の関係を無視した見当違いの御言葉を使って、表面的には義をよそおっています。
そんな義をよそおって騙すことも、サタンの特性です。彼らがよく使うみ言葉は、使徒行伝以降のパウロ書簡などからが多いようです。たとえば、
「罪を犯した者に対しては、ほかの人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。」第一テモテ5:20
これだけ見ると、「ああ、すべての人の前で罪は咎めるべきだ。」と考えてしまいます。しかし、この前後は、「長老」について書かれた話であり、当時も問題となるような長老がエペソの教会にいたと思われます。その訴訟があり、それについてのテモテへの指示がこの箇所の内容です。
書簡はすべて、その前後の教会の状況を見ながら読み取らなければならないのです。書簡は一般論でなく、前後のTPOがあり、その状況を把握しなければ間違った道へと踏み外してしまいます。しかし、書簡だけでは、当時具体的に何があったのかは十分には把握できないのです。
ひとつ前の5章20節には、「長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。」ともあります。つまり、複数以上、三人の証人がいなければ、断罪も訴訟すらもできないと言っているのです。当時、逆にその長老を支援する証人もいたはずです。訴訟をし、処分されたかどうかも詳細わかりません。また、土俵の外の第三者が訴え断罪せよとは言っていません。当事者同士の話です。
そんなTPOをしっかり見ないで、この一句をことさらに強調するのが、荒野の誘惑のサタンと同じ特性です。
私はパウロを霊的に高い使徒と信じておりますが、パウロ書簡は教会への具体的な指示を出すこともあったと理解しています。それで書簡はそれぞれの状況ごとに違ったことが書かれているので、いつも注意しなければなりません。つまり、背景にある状況が異なる場合、一句のみ取り出せば、全く正反対の内容でも示すことができるということです。
書簡文書から前後関係抜きに「み言葉にある」と言って示すような者は、実に福音から外れた危うい者が多いのです。ご注意ください。
いつも自分は四福音書からの主イエスの言葉を大切にしています。それは、イエスのご人格をしっかり信仰の土台として焼き付けるためです。
テモテへの書簡にあるような、そんな困った「訴訟されるべき長老」が、実は現代の「アバク者」の側にいるのかもしれません。ご注意ください。
彼らは、訴訟がなくても、証人に会ったこともないのに、第三者の立場で公に告発し、無関係な友人ですら全世界を前に難癖をつけてネット上で悪意をもってアバク者です。そんな彼らの「公平」も「愛」も感じられない行為に、世人はみな躓いて福音から離れていくのです。
人々の罪をさらす行為は、サタンの特性です。福音宣教を妨害する者たちなのです。お気を付けください。
石打ちの刑に処せられようとしていた姦淫の女に、主イエスが言われた言葉が感謝でしたね。
✞主イエスの特性は、こちらです。
「わたしも、あなたを罪に定めない。」(ヨハネ8:11) ハレルヤ!