神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

トマスの福音書を探る価値

    私は、新約の四福音書を読んでいるときが、一番心安らぎます。主イエスの発したことばこそ、隔ての幕を割き、天の視点を開いてくださいます。

    さて、質問がありましたので、ここでの記事によく扱う"トマスによる福音書"について説明します。

"トマスによる福音書"は、1945年にエジプトで見つかった『ナグ・ハマディ写本』群に含まれていた文書で、114の文からなるイエスの語録集です。本文中に使徒トマスによって書き記されたとあるので、この名があります。イエスの語録集として古くから注目され、これまで原始キリスト教の教父たちの証言により、その存在は知られていましたが、その後退けられたため、今世紀の写本発見までは、その内容はほとんど不明だったのです。その文章の中には共観福音書との共通点も多く見受けられると同時に、四福音書には見られない難解な文章も多く、節ごとの繋がりもないので、福音書としての採用を敬遠されたと思いがちですが、そもそも長い間原文が見つからず、1945年に発見されたものですので、中世の編纂対象にはならなかったわけです。

    四福音書作成の元になる主の言葉のメモのような文章は、「Q資料」と呼ばれています。その第一候補がトマスによる福音書です。主の語られたことだけを記録した初期の「Q資料(語録)」(聖書の骨格)と呼ばれるものに近いといわれています。現代の言語学者や聖書学者がこの語録を訳したものを読んでもピンとこないのですが、実際に翻訳すると聖書の中のレーマも共通しており、大変な宝が隠されていると感じています。まして、ナグ・ハマディ文書の中に発見され、トマスが主の言葉を備忘録として書き留めたものであるなら、解読する価値があると思います。

    それを聖書と比べながら探るのは、価値のあることだと考えています。実際、特にその隠喩を解読することで、今までになく聖書の解釈が変わってくるのは不思議です。今の日本語の聖書がいかに原文から外れた訳をしているかも少しずつわかってきました。
 この福音書に少しでも主イエスの御言葉、アグラファ(現行の新約聖書福音書には収録されていないが、その他の初期キリスト教文献で言及されているイエスの言葉が幾つかあり、これを「アグラファ」=ἀγράφα. 「書かれざるもの」と呼び、新約聖書学上、大きな意味を持つ)が含まれているならば、114節の短い言葉を解読することは価値のないことではありません。否、多くの収穫を得ることができるかもしれないと感じています。序文にある「だれでもこれらの言葉の意味に行きつくなら、彼は死を味わうことがない」とは永遠のいのちを示唆するものであり、それが本当なら驚くべき宝が隠されている可能性を示しています。その真偽については、114節の言葉の意味を解釈し体験してみれば結果として見出すことになると考えます。

サンダー・シングも以下のように言っています。

「神秘家が嘘を言っていないことは、その生き方によって確かめることができる。そこで、まず、彼の言うことに耳を傾け、次にその言葉をあなた自身が体験によって生き、確かめてみることである。

霊的事柄を、霊的経験は何一つ持たない科学者の判断に委ねることほど愚かなことはない。日食がいつ起こるかわかる科学者も、罪という日食について何一つ知らずにいるのだ。眼球にはものを見る力が備わっているが、光に照らされなければものを見ることができない。同じように知性と言う目にも、見る力は備わっているが、『義の太陽』に照らされないうちは、見ることができないのである」。

〜サンダー・シング“At the Master's Feet”『神との対話』より