神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

仏とは「乾屎橛」〜敬愛する師36

「生命之光」10月号に敬愛する師の講話がありました。興味深い内容ですので一部、紹介させてください。

【乾屎橛】

宗教の真理というときに大事なことは、いくら真理や神についての説明を聞いても、その実体に出会わなければ救われない、ということです。
『無門関』(注1)という禅宗の本の中に、次のような問答があります。支那の雲門という名僧に、ある坊さんが「仏とは何ぞや」と問いました。これは、「神とは何ぞや」というのと同じような真理についての大問題ですが、それに対し雲門は「乾屎橛」(かんしけつ)と答えました。「乾屎橛」とは、一説には便所で糞をした時にお尻を拭く、乾いた木のヘラだといいます。昔は紙を使わず、棒切れでお尻を拭いたんですね。せっかく宗教上の大問題、「仏とは何か」ということを尋ねたのに、名僧ともあろう人が「糞ベラ」と答えた。どうしてこういうことを言うのか。ここに、宗教上の真理を考えるときの重大な問題があります。

多くの人は、「仏とは何ぞや」といえば、「仏様は立派なお方であって、慈悲深い、光り輝いた存在である」と教え込まれて、そう信じています。けれども、信じている人たちが、教えられたような仏に、実体に出会ったことがあるかというと、ほとんどの人が出会っていないようです。

また、クリスチャンは「神を信じている」と言います。では、「神とは何ですか」と聞くと、「神は愛です」と答えるでしょう。しかし聖書には、「神は光である」「神は永遠の生命である」「神は霊である」などと、いろいろな定義があります。それで多くの人は、聖書には真理がいっぱい詰まっていると思っています。そして、それらの真理を体系化して教理を作り、それを信じるのが信仰だと錯覚しています。「神は愛である、最高者である、全能である」などという定義は理性でわかるでしょう。しかし、その実体に触れるのとは別のことです。触れもしないで信じているならば、それは架空なことです。

(注1)無門関:中国南宋時代の禅僧・無門慧開(えかい)によって編纂された仏教書。釈迦をはじめ高僧らと弟子との問答が収められている。理屈では不可解なやり取りを通して、悟りに至らせる内容が多い。さらに無門がそれを批評した「評唱・頌(じゅ)」が付されている。

【頭で作った神様】
仏教では仏像を拝みますが、それは人間が心に描いた姿を彫刻に表したものですから、ほんとうに悟った人は仏像ではなく、そこに表現されている何かを拝もうとしています。クリスチャンには「仏教は偶像教である」と言う人があるが、それは大きな間違いです。そのような人に「あなたは『神とはかくかくのごときものである』という定義を真理だと思って信じているが、そのような神に出会ったのか?」と問うと、「会ったことはない、信ずるだけだ」と答えます。それならば架空ではないか。架空なものを信ぜよ、と聖書は言っているだろうか。聖書の神は在りて在る者である。実在の実在、天地が崩れても存在するようなお方である。頭で描いた観念の神を信ずることとは違います。

ドイツの神秘思想家エックハルト(注2)は、「人間の頭で考えられた神は、もはや神でない」と言いました。けれども、今のクリスチャンの多くが信じている神様は、知識の神様です。「神とは~のようなものである」といって素晴らしい形容詞を神様にいっぱい奉(たてまつ)り、それを信じているんです。それならば偶像と同じで、人間の頭が製造した神様です。

ほんとうに宗教がわかりだした者は、そんな頭で考えた観念は信じません。ですから、禅宗では「仏とは何ぞや」と言葉で定義を求めるような人には、わざと「乾屎橛」などと躓(つまず)かせるようなことを言う。そうして、そのような架空な観念を根本から揺さぶってやらなければ、その人は救われません。いつまでも一つの理屈や観念を信じているままです。

(注2)エックハルト(1260年頃~1328年頃):
中世ドイツの神学者、神秘思想家。人間が神について定義づけすることを否定し、神に合一することを重視した。当時の教会から異端とされたが、後の多くのキリスト教思想家に影響を与えた。

【真実のキリストの姿、実在の神】
科学上の真理があるように、キリスト教の真理があります。否「真理 アレーセイア」は「真実」といってもいい言葉です。普通の人は、神は燦然(さんぜん)として金ピカに輝いていると想像します。けれども、出会うものの真実は、想像とは違うかもしれないのです。

たとえばヨハネ福音書の続きの箇所で、弟子のピリポがイエスに「主よ、私たちに父なる神を示してください」と言った時、イエスは「わたしを見た者は、父なる神を見たのだ」と言われました。けれどもピリポは、「あなたはイエスという人間ではないか。私は神を見たい。神はかくのごとく素晴らしいもののはずだ。また、神の子キリストも栄光燦然たるものだ」と思っているので、イエスが人々から悪しざまに言われ、迫害され、十字架につけられそうな目に遭うのを見た時に、イエスの言われることを信じられませんでした。キリストだったらもっと強いはずだ、と思い込んでいたからです。

たしかに旧約聖書には、「油注がれた者(救世主・メシアであるキリストを指す)は神の栄光の中に現れて、われらを救いたもう」というような言葉があります。それで皆は、輝く栄光の中に現れるキリストのお姿を想像します。しかし、聖書は逆のことも書いております。たとえばキリストの預言といわれる、有名なイザヤ書53章の「苦難の僕(しもべ)」の姿です。

  彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
  われわれの慕うべき美しさもない。
  彼は侮られて人に捨てられ、
  悲しみの人で、病を知っていた。
  また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
  彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

イザヤ書53章2~3節
この預言のように人々から悪しざまに言われ、打たれ、苦しめられ、十字架につけられて黙って死んでゆくような者がキリストだというならば、だれも信じることができません。多くの人が、キリストは黄金燦然(さんぜん)と輝いているものだ、という観念に囚れているからです。だがそのような観念は、人間の頭が作ったもので、そんな観念は人を救いません。

聖書の神様は実在の実在であって、人間が否定しようが否定しまいが実在する神様です。

神の人モーセは、罪を犯し、エジプトの王パロを恐れて、ミデアンの野に逃れました。そこで羊を飼っていた時、ホレブの山に行き、燃える柴の中から「モーセよ、モーセよ」と呼びたもう神に出会いました。(出エジプト記3章)

私も戦後間もないころ、アメリカの進駐軍に追われる目に遭い、阿蘇の山奥に逃れたことがあります。おびえながら必死に神に助けを祈っていた時、突如としてキリストがありありと霊の御姿を現されましたので、ひれ伏しました。そこで神の御言葉を聴き、私は伝道を始めたのです。このようにして知った神様は、人間が頭で考えた神ではありません。実在に触れて知った神様です。だから救われるのです。

【生命そのものに触れるには】

またイエスは、「わたしは命である」と言われました。ところが、これも「真理」と同様に難しい問題です。たとえば、草花には命があります。だが、草花の命はどこにあるかと思ってどれだけ手折(たお)って調べても、命はどこにもありません。たとえ草花をいろいろ分析して、その組成がわかったとしても、それは元素というか分子の塊であって、物質です。

そのように分析しても、草花の命そのものを取り出して見せることはできませんが、草花の美しさを嘆賞し、花に触れることを通して、その命に触れることはできます。草花に命が通っているからこそ、立派な花が咲くのです。

同様に、「キリストは永遠の生命である。普通の人間と違う生命をもっておられた」と言っても、それに触れることができない人は、「そんなことがあるものか。永遠の生命なんかない」と言います。いくら分析しても、草花の命を確かめられないのと同じです。

だが、キリストが「わたしを見た者は、父なる神を見たのである」と言われたように、父なる神の生命がイエスに流れてきているので、私たちはイエス・キリストを見ることを通して、永遠の生命、神の生命、神ご自身がどういうお方かを知ることができるのです。

それがわかる人は、「イエス・キリストは人間でありながらも、なんと神々しい、素晴らしい、力と愛と義に満ちたお方なのだろうか」と言って、涙が出てたまらないのです。イエスの中にある生命に触れるからです。それは言葉では説明できません。

シェアもと、つづき↓

https://www.makuya.or.jp/lec-812-wareha/

 

大変、奥深い話であります。

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2016/06/14/081411