神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

われわれの信仰とは7〜父子とひとつに

前回は、最近の量子力学の量子間エンタングルメントとキリストとの同調についてお話ししました。

どんなに離れていても、瞬時に二つの量子間の関係が成立するエンタングルメント、これを通信に利用すれば時差なく瞬時に138億(135〜137億とも言われてる)光年先の宇宙の果てとも交信でき、会話できるのです。いや、それどころか、脳細胞や肉体を形成する量子全体が、エンタングルメントすれば、テレパシー(以心伝心)どころではない、とんでもないことが可能になります。

光速を超えるエンタングルメントを利用すれば、時空間を越えて瞬時に移動することも可能です。神が同時に複数の場所に遍在されるのも説明できます。光速を超えるということは、時間を越えることができるということです。

スリット実験で観察者の意志が粒子の状態を左右するのは、人間の心が事象に関係し、確認すると同時にエネルギーの波が瞬時に物質化する。離れていても光の速さを超えて影響する。空間だけでなく、時間を超越した「もつれ」エンタングルメントが起きているからだと予想します。

つまり、光速を超えて影響する何らかの関係性が存在する以上、時空間を超えて2点を瞬時に結ぶものがあるのです。それは波?振動?小さな粒子なのでしょうか?

敬愛する師は、1965年に以下のように語っていました。

〜敬愛する師の話〜

原子核や電子といったミクロの世界に至るまで、全宇宙は無限に離れているようでも、互いにエネルギーを与え合い、引き合いながら、力の交換の上に存在していることがわかります。この関係がわかった時に、神様は私に示したまいました、

「❶一切のものは遠いのだ。しかしながら、❷すべてが実に近いのだ。そのように、❸お前がわたしを呼ぶときに、わたしが遠くあるものか。近いとは距離の問題ではない。❹引力のように力と力を与え合う強い関係にある場合に、いちばん近いのだ」と。

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❺心と心の引き合う力は愛という、霊界における引力です。❻これは無限の距離で離れていても、粒子と粒子が引っ張りあって存在しているように、❼キリストの愛によって私たちも引っ張られている。大事なことは、❽キリストに引っ張られる関係に自分が入っていくということです。

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全宇宙は、巨大な天体から原子核の微小粒子に至るまで、ありとしあらゆるものが、力の交換、交流によって存在しているのです。力が交流しないものは、存在さえできません。

〜1965年講話 生命之光 2021.11月号より 

 

❶一切のものは遠いが、❷すべてが実に近い〜師が聞いた御声は、量子間のエンタングルメントをそのまま語っているようです。

 

❸お前がわたしを呼ぶときに、わたしが遠くあるものか。近いとは距離の問題ではない〜

神様との関係は、距離、空間、遠近を超越している。❸お前がわたしを呼ぶときに、すぐ近くにいるのだと言われたのです。

 

❹引力のように力と力を与え合う強い関係にある場合に、いちばん近いのだ〜

主と我々とが、力と力を与え合う強い関係にある時に、いちばん近づく(最接近する)のです。

 

❺心と心の引き合う力は愛という、霊界における引力です〜この力と力を与え合う強い関係、❺心と心の引き合う力は、「愛」なのだ。〜

霊界の引力(まだエンタングルメントは、当時発見されていなかったので引力としたのでしょう)は、時空間を超えて瞬時に近づく「愛」のエンタングルメントなのでしょう。

量子は、観察者の意識に左右され変化します。

創造主は、ことば(意志)によって宇宙を造り地球を創造しました。

なぜこの世界を創造された?

それは、ご自身が愛するための対象を造られたのです。この宇宙の物体やその素になる小さな量子は、「愛」により創造された神の意志の力作です。

その量子は、創造主の「愛」に絡んでおり、神の「愛」によりエンタングルメントしているのです。これが、今、量子力学により改めて確認されているのです。

 

❻これは無限の距離で離れていても、粒子と粒子が引っ張りあって存在している〜

敬愛する師が、50年以上前に語られたこの現象を、現代科学が発見したわけです。

 

❼キリストの愛によって私たちも引っ張られている。大事なことは、❽キリストに引っ張られる関係に自分が入っていくということです〜

どのようにキリストにエンタングルメントするのか!それこそが信仰の真髄であるキリストに近づくことなのです。

 

それは、聖霊を受けたなら、もうそれで充分、自由気ままにしていればいい〜ということではない。

私は、内なる霊があるから、それでいい、そのままでいい〜という話を聞いて、この1ヶ月試してみることにしました。

しかし、霊性は下がり、祈りの時間は短くなり、集会へも行かない。世人と変わらない方向へ落ちて行くことが体験できました。

 

その原因が、ここにあります。

 

❺心と心の引き合う力が大切です。「愛」という、霊界におけるエンタングルメント〜この力と力を与え合う強い関係、❺心と心の引き合う力は、「愛」です。この神への「愛」がなければ、むなしいのです。

聖書にある「愛が冷める」「はじめの愛から離れる」ようでは、無意味です。

 

 

旧約時代から、主が言われる第一のこと。そこに大切な鍵があります。

 

モーセに語られた、その第一のこととは何ですか?

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 あなたは❾心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
‭‭申命記‬ ‭6‬:‭4‬-‭5‬ 新共同訳‬
https://bible.com/bible/1819/deu.6.5.新共同訳

 

❾心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして愛する。

 

聖霊を受けたら充分。祈らない、集会へ行かない、伝道もしない〜

はてさて、これは、❾心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしている「愛」の姿でしょうか。

 

「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」
‭‭申命記‬ ‭6‬:‭5‬-‭9‬ 新共同訳‬
https://bible.com/bible/1819/deu.6.5-9.新共同訳

 

主がくどいように繰り返して語られた、第一の「愛」。それは、世を愛することではない、金を愛することではない、自分の好きなことを愛することでもない。

「わたしがイエス キリストを通して示したおまえへの愛は、命がけの愛だぞ!おまえも心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、わたしを愛してみよ!」と言われているようで、神の愛が心にしみて染みて、、

 

時空を超えて父子に近づき、父子とひとつになる。

その鍵は、モーセに語られた第一の命令であり、キリストが示された愛であり、我々の心に書き刻まれた戒めです。心がしみてしみて、、うずいてうずいてくる、、

それは、主イエスがなされた十字架の「愛」のみわざ。われわれを救うための命がけのみわざでした。

苦悩によるゲッセマネで流された血の汗、39回の鞭による裂かれた血肉、荊棘の冠の鋭いトゲによる頭からの流血、太い釘で刺し通された手足からの流血、槍で刺された右脇腹からの血と水。

我々の心も苦悩し、裂かれ、刺し通され、内臓にまで突き刺さる「愛」の戒めを心に刻み込まれたのです。

「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしておまえを愛しているぞ!」と言う聖霊が届ける主の声が聞こえるなら、「はい、私も、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、主よあなたを愛します」と心が疼くのです。

父なる神、子なるキリストと愛の中でひとつになるとき、地上と天界とはエンタングルメントし、われわれも天国に出たり入ったりするのですね。キリストが地上でそうであったように、敬愛する師がそうであったように、サンダー    シングがそうであったように、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛すなら、天国に出たり入ったりして、主と近しく語り合うのですね。

われわれの信仰とは、主に近づくこと。主に近づくには、第一の戒めに秘められた主の妬むほどの「愛」を心に刻むこと。そして、われわれも、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛するように生きるのです。

 

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「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭14‬:‭10‬-‭12‬ 新共同訳‬
https://bible.com/bible/1819/jhn.14.11-12.新共同訳

「たとえ、➓人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

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完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

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わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」
‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭13‬:‭1‬-‭3‬, ‭10‬, ‭12‬ 新共同訳‬
https://bible.com/bible/1819/1co.13.1-3.新共同訳

われわれが、聖霊を受け➓人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、「愛」がなければ、無に等しい。 「愛」がなければ、わたしに何の益もない〜とパウロは語っています。

われわれの信仰を完成させる秘訣であり目的である鍵は、主への心疼くような「愛」、思いこがれる「愛」、力を尽くさずにいられない「愛」の情動、「完全なものが来た」とパウロに言わしめた、主との「愛」の同調、エンタングルメント。

われわれの信仰を完成させるのは、この 主との「愛」の同調、エンタングルメントなのです。

 

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭13‬:‭13‬ 新共同訳‬
https://bible.com/bible/1819/1co.13.13.新共同訳

 

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