「だから、こう祈りなさい。 『天におられるわたしたちの父よ、 ◉御名が崇められますように。」
マタイによる福音書 6:9 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/mat.6.9.新共同訳
先日、聖霊により祈りが導かれると、ただ、麗しい主だけを、❷心の全てで、❸命の全てで、❹力の全てで愛するのだ。主の祈りの一番最初の言葉だけで良い。
これ◉だけでいい!もうこれだけで充分だ!いっぱいだ!「聖名が崇められますように!」
そう祈る時、自身の願いや諸々の思い煩いはないのだ。自身の希望や、欲求、願いはそこにはない。ただ主に、栄光と尊厳と感謝が永遠にありますように!〜そのような祈りと共に強い御臨在が現れた。
◾️第一の戒めの真意
「聞け、イスラエルよ、YHWHはわたしたちの神である。❶YHWHは唯一である。
そして、あなたの❷心臓のすべて、❸血(生命)のすべて、❹力(権能)のすべてを献げて、あなたの神、YHWHを愛するようになる。」
申命記6:4、5(私訳)
第一の戒めは、まさに十字架上のイエス キリストそのままではないか!
https://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2016/02/29/005047
キリストは、この世界に高次の究極の「愛」を示しに降誕しました。しかし、ユダヤ教のリーダーたちは、イエスを殺してしまいました。
十字架は、「愛と義」について伝えに来た神のひとり子を殺す行為でした。十字架上のイエスの死は、この世の支配者の卑劣さ、欺瞞、醜さを明らかにし、世を裁くための審判の根拠となりました。
同時に、その当時聞いたこともないキリストの教えを聞き、「高次の愛」を理解した一部の者たちには、生命を与える証拠=復活を示しました。
新約聖書にはこう記されています。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛された.それは、彼の*中へと信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためである。」
(ヨハネ伝3:16回復訳)
*主の中へと信じるとは、彼を信じること(6:30)とは異なります。彼を信じるとは、彼が真実であり、実際であると信じることです。
しかし彼の*中へと信じるとは、彼の生命がけの愛を受け入れて、彼と一つに結び付けられることです。前者は客観的に事実を認識することであり、後者は主観的に神の生命や愛を受け入れることです。
旧約の第一の戒めは、この十字架の御わざを預言しているのです。
しかし、ユダヤ人はじめ、キリスト教徒もわからない人が多いのです。
昔、通っていた京都の教会では、自分に死に、自己を捨て、自我を捨て、自分を十字架にかけて、などとよく発破をかけられた。
しかし、今になれば、こんなこと言ってる牧師ほど、自分に死んでないってことなのがわかった。
それは、この話が「自分」と言うものに目がいっている、間違った視点の話であるからだ。
学生時代、どこかの修行僧のように、断食を繰り返したり、自分の精神的弱さと戦って祈ったりしていた。
自分に死ぬなどと言うことを、一生懸命考えていては、自分ばかり気になって肝心な「イエスから目を離さないでいなさい」の御言葉に反しています。心の視点がネフェシュ(肉的な魂)に向いてしまっているのです。本来なら高次元の神の世界、ネシャマー(天父の霊)に向かわなければならないし、ネシャマーにドップリとバプタイズ(浸かる)するだけなのです。
自我に死のう、自分を十字架につけよう、と考えるよりも、長血の女のように、主に触れてしまえば早いのです。
キリストの救いから目が離れた状態に向かってしまうのが、肉の信仰なのです。
ネシャマーにドップリとバプタイズ(浸かる)だけで感じとれるはずです。
(まだ初心者の方は、御臨在を感じられる霊的な教会に行くべきですが)
◾️これは体験だ!
これから語る体験をすれば、ものすごく強い御臨在の中に入ることができます。
それは、主の御臨在の中に、自身が溶け込んでしまい、もはやそこに自分がいなくなるのです。説明するのが難しいが、この体験をした者は、冒頭に述べたように
「父よ、 ◉聖名が崇められますように!栄光と感謝と尊厳がとこしえにあなたにありますように!ハレルヤ!」と叫び祈り讃美と感謝だけの感覚に満たされるのです。
修行僧のように、自分を十字架につけ、自分に死んで、自我を殺して、などという昭和の星飛雄馬の根性論では、決して到達できない世界です。自身の克己奮闘、自分をなんとかして〜のスタンスでは決して達成できません。
昭和の時代、グランドを走らされて「水を飲むな!水を飲むと疲れるぞ!」と言われたことがあります。昭和の根性論です。具合の悪くなる選手がたくさん出ました。それと似たものが自我を捨て、古い自分を捨て、心頭滅却、即身成仏、などなどの修行にあります。
自分を苦しめることに、視点が向いているのならば、もはやそこに救いなどありません。
大事なのは、主イエスから注がれる活ける水を腹いっぱい飲むことです。
当時、自我に死ねと言っていた牧師は、最後には姦淫の罪を犯し、教会を追われました。この牧師は、いつも自身や他人のことを見て、自我に死んでないなぁ、訓練が足りないなぁと思っていたんでしょう。
そこに救いはありません。"自分ばかり見てる人は、やはり自分中心なのです。" また他人ばかり見ても、目に見える人間的な三次元のレベルから移行できていないのです。
ただ、麗しい主だけを、❷心の全てで、❸命の全てで、❹力の全てで愛する。
主の祈りの一番最初の言葉◉だけでいい!もうこれだけで充分。いっぱいだ!と愛が満ちるとき、「聖名が崇められますように!」とだけ心の底から祈るのです。すると自身の願いや諸々の思い煩いは消え、そこには、この世的な自身の希望や、欲求、願いはなくなります。それはすでに自我に死んだ、己を十字架につけた状態と似ているのです。それも自然な姿で自分など眼中にない境地になるのです。
◾️第一の戒めの真意〜新しい境地へ
自分や他人ばかり気にする自己中から離れ、視点をネシャマーへ移し、既にある神の世界に触れること。それはキリストの愛にほだされ、天父の愛に溶けるように包まれる体験なのです。
それは、創世記2章24節の体験と同じです。
על כן יעזב איש את אביו ואת אמו ודבק באשתו והיו לבשר אחד׃❶
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は❶一体となる。」
創世記 2:24 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/gen.2.24.新共同訳
❶אחדを、KJVでは、"and they shall be one"と訳しています。つまり、「かれらは一つになる」です。
もう一度、申命記6章4、5節の第一の戒めを読んでみましょう。
❶YHWHは唯一である!
そして、あなたの❷心臓のすべて、❸血のすべて、❹権能(力)のすべてを献げて、あなたの神、YHWHを愛するようになる。」(私訳)
文脈がおかしいと感じませんか?
主が唯一である!ならば、主を愛するようになる。前半の条件の方の訳が少し違っているように思います。
原文は
שמע ישראל יהוה אלהינו יהוה ❶אחד׃
ואהבת את יהוה אלהיך בכל ❷לבבך ובכל ❸נפשך ובכל ❹מאדך׃
❶אחדは創世記の「かれらは一つ」と同じで訳せます。
◾️私訳改〜
「聞け、イスラエルよ、YHWHはわたしたちの神である。❶YHWHとひとつになる。
そして、あなたの❷心臓のすべて、❸血のすべて、❹力のすべてを献げて、あなたの神、YHWHを愛するようになる。」
申命記6:4、5(私訳改)
これが真意ではないでしょうか。
上記の体験を、この第一の戒めが語っていたのです。それは、キリストが十字架上でなされた御わざそのものです。この第一の戒めは、十字架上のキリストの預言であり、キリストの死を語っていたのであり、キリストの命をかけた愛を語っていたのです。そして彼は到達したのです。
天父である主とひとつになることができるならば、
❷心臓の全てで、❸血の全てで、❹権能の全てで、主を愛するようになるのです。
何と言う深い御言葉でしょう!
イエスは十字架上で最後に
「イエスは大声で叫ばれた。「父よ、❺わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。」
ルカによる福音書 23:46 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/luk.23.46.新共同訳
❺わたしの霊を御手にゆだねます〜イエスは、天父に❺霊を上げてしまうことで、三日後にその命を取り戻したのです。
〜つづく
ps.第一の戒めとヨハネ伝14.15章について↓
https://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2025/04/03/033556

https://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2024/11/03/043202
https://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2016/05/06/004207