継続してトマスの福音書を解説し、意訳しています。
36節
*Said-JS36 (this) Do-not-take-care from-morning upto-evening, and from()evening up-to-morning for what (it) is which-will-give-him upon -yourselves. > Said-his-disciples this: which -day will-you(sg)-appear forth to-us? And which day will-we-look upon-you(sg)?
37節
*Said-JS37 this: Wh-en you(pl)-should-strip-yourselves naked without-be-ing-ashamed, and ()-you(pl)-take your(pl)-garments &-you(pl)-put-them under-the-ground of-your(pl)-fee-t, like those-little small-children, &-you(pl)-trample them, > then you(pl)-will-look upon-the-son of-he-who-lives, and you(pl)-will-become-afraid not.
36直訳
JS36 イエスはこう言った:朝から晩まで、そして夕方から朝まで気を使うな、すなわち、それは、❶あなた方自身に何を与えるだろうかを。彼の弟子たちが言った:あなたは、どの日に私達に対しおもてに❷現れるのでしょうか?どの日に、私達はあなたを見るのでしょうか?
37直訳
JS37 イエスはこう言った:あなた方が、はじることなく脱ぎ❸裸になるべき時、そしてあなた方の着物を脱ぎ足元の地面に置くとき、あの幼い子どもたちのように、そしてそれらを❹踏みつけるなら、そのときあなた方は❺生きている方の子を見るであろう、そしてあなた方は❻畏れなくなるだろう。
36節で、「朝から晩まで気を使う」のは、いつも「❶あなた方自身に何を与えるだろうか」と言うことです。しかし、主イエスは、気を使うなと言っています。
マタイによる福音書6章に同じような句があります。「 25だから、わたしはあなたがたに言う.自分の命のために何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の体のために何を着ようかと、思い煩ってはならない。命は食物にまさり、体は衣服にまさるではないか?…31こういうわけで、『何を食べようか?何を飲もうか? 何を着ようか?』と言って、思い煩ってはならない。」マタイ6:25,31(回復訳)
「❶あなた方自身に何を与えるだろうか」とは食べるものや着るものを指すようです。「それらを思い煩ってはならない。」と言っているのです。そのあと弟子たちは、「あなたは、どの日に(いつ)私達に対しおもてに❷現れるのでしょうか?どの日に(いつ)、私達はあなたを見るのでしょうか?」と言いました。
目の前にいるイエスに対し、なぜ、「いつ私達に対しおもてに❷現れるのでしょうか?いつ、私達はあなたを見るのでしょうか?」と言ったのでしょうか。ヨハネによる福音書14章に似た場面があり、弟子たちは、イエスが救世主であることを世に現すのは、いつかを問うているかもしれません。
ヨハネによる福音書 14章 を読んでみましょう。 18わたしは、あなたがたをみなしごのままにはしておかない.わたしはあなたがたに来る。 19 もうしばらくすると、世はもはやわたしを見ない.しかし、あなたがたはわたしを見る.わたしが生きているので、あなたがたも生きるようになる。 20 その日には、わたしがわたしの父の中におり、あなたがたがわたしの中におり、わたしがあなたがたの中にいることを、あなたがたは知るであろう。 21 わたしの戒めを持ち、それを守る者は、わたしを愛する者である.わたしを愛する者は、わたしの父に愛される.わたしも彼を愛して、❷わたし自身を彼に現す」。 22 イスカリオテでないユダがイエスに言った、「主よ、あなたはご自身をわたしたちに現そうとしているのに、❷世に現そうとされないのは、どうしてですか?」 23 イエスは彼に答えて言われた、「だれでもわたしを愛する者は、わたしの言を守る.そしてわたしの父は彼を愛され、わたしたちは彼の所へ行って、彼と共に住まいを造る。」(回復訳) 〜ここでイエスは、「❷わたし自身を彼に現す」と言っているので、復活後のイエスが弟子たちの前に自在に現れる話しかもしれません。「わたしを愛する者は、わたしの父に愛される.わたしも彼を愛して❷わたし自身を彼に現す」「わたしたちは彼の所へ行って、彼と共に住まいを造る。」と言うのは、これから起きる聖霊降臨の奇跡を伝える箇所だとも思われます。
弟子たちの質問に対する回答が37節へと続きます。
トマスの福音書37節では、「あなた方が、はじることなく脱ぎ❸裸になるとき、あなた方は❺生きている方の子を見る」とあります。
これは、まるで創世記のアダムとエバがイチジクの葉を綴り合わせ腰に巻いたことと真逆の場面に見えます。つまり、人は罪を犯したときに神を畏れ、神の御前から隠れ、自分の罪の汚れから❸裸であることを恥じました。しかし、イエス・キリストの十字架の御業、その血潮により罪赦されたことで、神の前に❻畏れなく、恥もなく❸裸で立つことができるようになるのです。その時まさに❺生ける神の子を十字架上に見ることができるのです。それは十字架上に❸裸のまま釘付けにされた我らの主、先達である救い主イエス・キリストに倣うように❸裸のまま神の前に出る瞬間なのです。それは、罪を犯す前のアダムとエバのように、生ける神の子としてのアイデンティティを我々が見出す瞬間でもあります。その時、❺生ける神の子、主イエスを見ることができるのです。そして❻畏れがなくなるのです。今も、聖霊を受け、神の前に裸で出る祈りの中で、主イエスを見るのです。
36意訳
JS36 イエスはこう言った「❶あなた方は何を食べ着るかを、朝から晩まで、そして晩から朝までの間、心配するな。」イエスの弟子たちが言った「あなたは、いつ私達に対しキリストとしておおやけに❷現れるのでしょうか?いつ、私達はあなたを見るのでしょうか?」
37意訳
JS37 イエスはこう言った「あなた方が、恥じ入ることなく脱ぎ❸裸になる時、そしてあなた方の足元に着物を脱ぎ、地面に置き、あの幼子たちのようにそれらを❹踏みつけるなら、そのときあなた方は(聖霊を受け、イエスの昇天後にも)❺生きている方の子(キリスト)を見るであろう、そしてあなた方は❻畏れがなくなるだろう。」
※あなたは、神の前に畏れなく裸で立てますか?イエスのピスティスのゆえにそれは可能なのです。
※「裸のキリストに裸で従う」聖フランチェスコは、召天前に聖痕を受けたと言います。