神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

三つの癒し 〜実際的な神の愛〜奇跡41

昨年、脳ドックで、脳幹と左脳に3箇所の出血痕があることがわかりました。医師の説明を受けたとき、心あたりがあり、4〜5年前に左半身が痺れた経験が2度ほどあったことを思い出しました。視力も安定せず、口が歯医者で麻酔されたように痺れたのでした。当時、病院で診てもらい、検査を受けたのですが、原因がわからないと言われました。まあ、大学出たての若い医師で、発見できなかったのだろうと思います。2回とも様子を見ようと言われて、そのまま帰宅し、主に祈っているうちに痺れは消え、視力も安定しましたので、そのまま休みも取らずに通常の生活にもどり、何ごともなく今まで過ごしてきました。覚えているのは、この2回だけです。

しかし、昨年の脳ドックで「脳幹の出血は危なかったね」と言われて、「あぁ、不思議に癒されている自分があり、まだこの世界でやることがあるからだ」と感じています。主は、脳の三度の出血も知らないうちに癒してくださいました。今は、何ら痺れや後遺症もない健康体です。主は、愛とあわれみのゆえに、このような者も生かしてくださっています。愛のゆえに奇跡が続いているのです。主の奇跡を忘れずに、祝福を数えるためにも、記事にします。

第1コリント‬ ‭12:28-31

「そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。 みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。 みんながいやしの賜物を持っているのだろうか。みんなが異言を語るのだろうか。みんなが異言を解くのだろうか。 だが、あなたがたは、❶更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい。そこで、わたしは❷最もすぐれた道をあなたがたに示そう。」‭‭‬ ‭(口語訳‬‬)

第1コリント‬ ‭13:12-13‬

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、❸顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが❹完全に知られているように、❺完全に知るであろう。 このように、いつまでも存続するものは、❻信仰と❼希望と❽愛と、この三つである。このうちで❷最も大いなるものは、❽愛である。」‭‭(‭口語訳‬‬)

パウロはコリント第一の手紙12:8-10で御霊の賜物について説明し、「同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。」(口語訳)と語って、当時の教会の秩序の維持について語っています。

そのあとで、❶更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさいと言っています。そのために、❷最もすぐれた道をあなたがたに示すと言って説明したのが、有名な"愛"についての以下の節です。「愛は寛容であり、愛は情深い…」(第1コリント13:4-8)

ほとんどの説教では、❷最も大いなるものは、愛であると言って、綺麗な言葉で終わることがあります。しかし、その後に続くパウロの説明には、「❸顔と顔とを合わせて、見るであろう」「その時には、わたしが❹完全に知られているように、❺完全に知るであろう。」と少し文脈が変わります。"愛"の説明をしているのに、一体、誰の❸顔を見て、誰に❹完全に知られ、誰を❺完全に知るのでしょうか?

これが理解できなければ、「あゝ愛は素晴らしい!大切だ」と終わってしまうかもしれません。

パウロは、「いつまでも存続するものは、❻信仰πίστιςと❼希望ἐλπίςと❽愛ἀγάπη」(第1コリント13:13)   だと言っています。漠然とした3つの言葉ですが、パウロは、もっと具体的に説明しています。

ローマ人への手紙‬ ‭5:1-5

「こういうわけで、わたしたちは❻信仰によって義とされているので、わたしたちの❾主イエス・キリストを通し、神に対して平和を持っています.
また❾その方を通して、わたしたちも、いま立っているこの恵みの中へ❻信仰によって入ることができ、そして➓神の栄光の❼望みのゆえに勝ち誇っています。
それだけではなく、わたしたちは患難の中でも勝ち誇るのです.それは、患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は❼希望を生み出すことを知っているからです.そして❼希望は、わたしたちに恥をかかせることはありません.なぜなら、わたしたちに与えられている聖霊を通して、➓神の❽愛がわたしたちの心の中に注がれているからです。」(回復訳)

 

以前にも書きましたが、❻信仰πίστις(ピスティス)とは、イエス・キリストの(所有する)❻信仰です。

ローマ3:22には、こうあります。

「すなわち❶神の義は、❷イエス・キリストの信仰(ピスティス)を通して、信じるすべての人にもたらされました.そこには何の差別もありません.」(回復訳)とあります。

❾主イエス・キリストを通し、❾その方を通して、わたしたちも、いま立っているこの恵みの中へ❻信仰によって入ることができたのです。

❼希望ἐλπίς(エルピス)とは、➓神の栄光の❼望みであり、❽愛ἀγάπη(アガペ)とは、➓神の❽愛がわたしたちの心の中に注がれた愛なのです。

いつまでも存続するものは、❾イエス・キリストの❻信仰πίστιςと➓神の栄光の❼希望ἐλπίςと➓神の注いでくださった❽愛ἀγάπηとなります。

このいつまでも存続する三つのものは、我々から出てくるものでなく、神からのものです。このうちで❷最も大いなる賜物は、➓神の❽愛だとパウロは言っています。

第1コリント13章の、一体、誰の❸顔を見て、誰に❹完全に知られ、誰を❺完全に知るのかが、これでわかります。神の❸顔を見て、神に❹完全に知られ、神を❺完全に知るのです。それは、「❾イエス・キリストの❻信仰πίστιςと➓神の栄光の❼希望ἐλπίςと➓神の❽愛ἀγάπη」を完全に知ることにもなるのでしょう。

第1コリント13章に当てはめてみましょう。

「しかしその時には、❸顔と顔とを合わせて、(❾イエス・キリストの❻信仰πίστιςと➓神の栄光の❼希望ἐλπίςと➓神の❽愛ἀγάπη)を見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが(神に)❹完全に知られているように、(❾イエス・キリストの❻信仰πίστιςと➓神の栄光の❼希望ἐλπίςと➓神の❽愛ἀγάπη)を❺完全に知るであろう。 このように、いつまでも存続するものは、(❾イエス・キリストの)❻信仰πίστιςと(➓神の栄光の)❼希望ἐλπίςと(➓神の)❽愛ἀγάπηと、この三つである。このうちで❷最も大いなるものは、(➓神の)❽愛である。」‭‭(‭口語訳‬‬)

「同じ御霊によって信仰、いやしの賜物、 力あるわざ、預言、霊を見わける力、種々の異言、異言を解く力が、与えられている」(12:8-10)と語っていますが、「❶更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めなさい」とも言っています。

「わたしたちに与えられている(同じ)聖霊を通して、➓神の❽愛がわたしたちの心の中に注がれること」が、信仰、いやし、力あるわざ、預言、霊を見わける力、種々の異言、異言を解く力とともに、熱心に求めるべき賜物と言うことなのでしょう。

神の愛に満たされ囲まれて初めて、寛容で、情深い、ねたむことをしない、高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える"愛"が、肉の努力ではなく、聖霊により与えられるのですね。

そして、神に❹完全に知られており、➓神の❽愛が注がれるとき、祈る前から、➓神の❽愛の中で、神のご加護と祝福を受けていることが体感できます。

それは、種々の賜物と同じく、実際的、実存的なものなのです。

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/09/02/022925

 

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2018.10.18撮影

 

 

 

 

 

 

 

二つの癒し 〜実際的な奇跡40

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ここ数週間で、色々なことがありました。ひとつは、高齢の父が大動脈解離で救急搬送され、入院しました。知らせを受けたとき、心に平安がありましたので、全く大事ないと思っていましたが、父は入院1週間で身体が硬直して寝たまま応答もなくなりました。医師は、この病気は1カ月の入院が必要、そのあとリハビリで他に転院するだろうと言います。私は、医師と口論し、すぐにでも出してくれれば、家族が面倒を見て回復できると言いました。硬直した父に手を置き、母が身体をさすると、やっと声を出しました。30分くらいで、お茶を飲み出し、次の日に見舞ったときには、自立歩行しだしたのには、驚きました。しかし、退院の許可は出ません。仕方なく妻や母が毎日見舞いし、教会の方にも見舞ってもらいました。父は、見る見る良くなり、リハビリなど必要ないのが誰の目にもわかりました。そして、手術もなしに入院15日目に退院を許可され帰宅したのです。主に感謝します。

もう一つは、些細な話です。私は奥歯の親知らずの間に虫歯があり、歯間ブラシで毎日洗浄するのですが、先週歯間ブラシのワイヤーが切れて、歯の中に残ってしまいました。確かに先が当たり、違和感を感じるのですが、歯の間から取れません。仕方なくイエス様にお願いして、ワイヤーを消してくれるよう祈っていました。しかし、気持ちが悪いので、歯医者へ行ってレントゲン撮影してもらうことにしました。レントゲンを見た歯医者は、なにも入ってないと言います。確かに、金属ならハッキリわかるはずなのですが、折れたワイヤーは見つかりませんでした。親知らずの虫歯は、治療せず、悪くなったら抜こうと歯医者が言っていたものでした。しかし、あのブラシの先の折れたワイヤーはどこに消えたのでしょう。知らないうちに取れたのでしょうか。でも、祈りに応えてくださる主を感じています。

この二つの些細な証詞は、生活の中で実際に起きたことです。神の真実(ピスティス)は、実存的です。空想話や与太話ではなく、実際に生活の中でありありと神が臨在されている事実を見るのです。なぜなら、コリント第一の手紙‬ ‭4:20‬ ‭には、こうあります。
神の国は言葉ではなく力にあるのです。」

こんな者でも、イエス=キリストの真実(ピスティス)を、感じながら生かされています。

あなたも実生活の中で同様に、主イエスの奇跡をその目で見ながら生きていらっしゃると信じています。

在りて有る方 〜高次元へ意識を広げて

面白いご意見をいただきましたので、わたしの考えも含めて以下に紹介させて下さい。

最近寄せられたご意見より〜

神はアルファにしてオメガ、初めにして終わりである。 これは❶神が久遠(無限)、常在、永遠であるという意味です。 そしてミクロにしてマクロという意味でもあります。 キリストの言葉に❷「源(はじめ)の中に終りが在り終わりの中に源が在る」と言うのがあります。 これを時に置き換えると「❸一瞬の中に永遠が在り永遠の中に一瞬が在る」となります。つまり一瞬の間断無き連続を【永遠】と言い❹時間は実在しない、となります。 時間が実在しないことが理解(悟)されれば❺空間、❻距離も存在しない事が理解され、それに伴い神が久遠、常在であることもりかいされます。 「❼神は、手や足よりも近く最も近いものよりも近くに在す」 これは、「❽我々は神の中(心の中)に存在し、我々の内に神はま在す」という意味です。 言い換えるなら全ては神である。という事です。 ❾鉱物、植物、動物、人間、ことごとく神ご自身が姿形を変えてそのものになっている。これが「最も近いものよりも近い」という言葉の意味です。〜以上。

 

〜大変面白いご意見でした。私の考えを述べさせて下さい。

まず、「❶神が久遠(無限)、常在、永遠である」ことは、アァメンです。また、「❼神は、手や足よりも近く最も近いものよりも近くに在す」 こともアァメンです。「❽我々は神の中(心の中)に存在し、我々の内に神は在す」ことも然りです。

キリストの言葉に❷「源(はじめ)の中に終りが在り終わりの中に源が在る」とは、トマスによる福音書の18でしょうか?黙示録22章がその補足になると思います。以下、直訳に近い回復訳を紹介します。

12「見よ、わたしはすぐに来る。わたしの報いはわたしと共にあり、それぞれの働きにしたがって与える。
13わたしはアルファでありオメガである。最初の者であり最後の者である。初めであり終わりである」。(回復訳)

これは、前後の文脈から、キリストが救いから審判までを完成するという意味だと思います。また、箴言8章22節からにもヒントがあります。
「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。 いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。 まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、 山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生れた。 すなわち神がまだ地をも野をも、地のちりのもとをも造られなかった時である。 彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、わたしはそこにあった。 彼が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、 海にその限界をたて、水にその岸を越えないようにし、また地の基を定められたとき、 わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、 その地で楽しみ、また世の人を喜んだ。 それゆえ、子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの道を守る者はさいわいである。 教訓を聞いて、知恵を得よ、これを捨ててはならない。 わたしの言うことを聞き、日々わたしの門のかたわらでうかがい、わたしの戸口の柱のわきで待つ人はさいわいである。 それは、わたしを得る者は命を得、主から恵みを得るからである。 わたしを失う者は自分の命をそこなう、すべてわたしを憎む者は死を愛する者である」。」‭‭箴言‬ ‭8:22-36‬ ‭(口語訳‬‬)

ここでは、創造のはじめから、審判までを司るイエスの姿が見とれます。

 

次に「❹時間、❺空間、❻距離が存在しない」ことについては、私の認識とは違います。以前にも記事を書きましたが、神は高次元の存在です。我々3次元に生きる者は、せいぜい4次元までしか認識できません。しかし、「❹時間、❺空間、❻距離が存在しない」としてしまったら、1〜4次元世界を否定してしまうことになります。それは、神がモーセに語ったご自分の名である「在りて有る」からは、全く違う説明になります。❹時間、❺空間、❻距離が存在しないとは、「在りて有る」方である神を否定することにもなります。まさに"無"の世界です。虚無でしかありません。❺空間が無ければ、「❽我々」も存在しないし、「❾鉱物、植物、動物、人間、ことごとく」は、存在しません。このような認識は、仏教でよくかたられますが、万物を創造し遍在される「在りて有る」方が聞いたら、悲しまれると思います。我々の魂は、高次元へと向かい昇華すべきです。低い次元(無=0次元)へ意識を向ければ、空しく人生はつまりません。

〜これは、わたしの意見ですので、どのようにお考えになっても構いません。

現代物理学では、11次元までの次元の存在が語られ、新しい開拓地を模索しています。3次元の宇宙空間ではなく、異次元を確認しようとしています。

また、高次元とは逆に、0次元とでも言うべき存在も確認中です。それは、ご意見にもあった時間、空間が存在しない点の世界です。スイスのCERNの実験では、小さなブラックホールを作ることを目指しています。

ブラックホールは光も逃げ出せない事象の地平(event horizon)のため、直に観測することはできませんが、周囲の天体に及ぼす影響から、ほぼ間違いなく存在するとされています。つまり、空間のない点の世界でもあるブラックホールは"無"ではないのです。ブラックホールからは、高エネルギーが放出されており、宇宙にあるブラックホールの観測からもその姿が撮影されています。全宇宙が巨大なブラックホールに飲み込まれた場合は、質量のない重力子や光子というエネルギーだけになると思いますが、すぐに新たな爆発と宇宙の誕生が繰り返されることでしょう。しかし、そんな途方もない❹時間と❺空間の移ろいは、4次元以上の存在から見れば、あたかも花火を楽しむ程度のものなのでしょう。

"何も存在しない"とは、もともと"私"が存在し、"❾鉱物、植物、動物、人間、ことごとく"が、今現在存在してしまっている状況では、論理的に破綻してしまうのです。何億年も経って、全てがブラックホールに飲み込まれて無くなったとしても、今"❽我々"が存在し、"❾鉱物、植物、動物、人間、ことごとく"が、存在した事実は消せないと思います。

「❸一瞬の中に永遠が在り永遠の中に一瞬が在る」という境地は、綺麗なことばですが、一瞬と永遠の間に、"今"という我々の人生や生活が確かに実存しているのです。もし実存しないというなら、例えば、ご自分で存在しないというこの世の食物を飲み食いせず、周囲の大気を吸って呼吸するのをやめてみれば、どうなるかわかると思います。

しかし、この世の物は、天国(高い次元)では取るに足りないものです。ご意見には賛同する部分も多く、この世の財産をパウロが塵芥と言うのがわかる方だとも思います。

でも大切なことがあります。キリストはこの世を愛されて降臨し、十字架に架かられたということです。このことを考えますと、この世で天国を広げることも大切なことだと思います。思いばかりが先行し、現実を見なくなるのは、宗教でしかありません。私は、現実(実存)の中で神を身近に感じる生活を目指しています。耳障りの良いことをたくさん語る者が、真実ではなく、実際に生活の中で神の奇跡がありありと現れる者こそ真実だと考えています。

以上が私の考えであります。

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2016/10/26/035622

今夕のご臨在 〜輝く未来

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2018.10.9撮影

出エジプト記16章 10節
アロンはイスラエルの人々の共同体全体にそのことを命じた。彼らが荒れ野の方を見ると、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。(新共同訳)

 

トマスの福音書42② 〜敬愛する師31

この世は橋だ。通過すべきところだ。〜敬愛する師の解釈より、シェアさせてください。

新約外典イエス・キリストの言葉として「この世は橋である」という一句があります。

 「橋」というものは、向こう岸へ歩いて渡るためのものでして、橋の上で、いつまでも右往左往すべきところではありません。この世は留まるべきところでなく、通過すべきところです。向上一路、天国をめざして歩む橋として観ずれば、その一歩一歩に意義と価値があります。幼年、少年、青年と一直線に成長し、やがて老年となり、死を迎えて来世へ渡ります。一回きりの人生、二度とやり直しのできぬ地上の生涯です。尊んで生きましょう。

 この世は天国への予備校です。予備校は予備校なりの意義がありますが、しかし、長く在籍すべきところではありません。

 私たちの人生の目的は、死のかなたに「来世への架け橋」を渡って、永遠の光の国に巡礼の旅を続けゆくにあります。私の好きな聖歌に次のようなものがあります。

懸けにし望みも ちりゆく花の
はかなきこの世を 去る由(よし)もがな
永遠(ときわ)の栄えに 入るべき者の
留まるべしやは ここに暫(しば)しも
父なる御神の 招きたまえば
御許へゆく身を ひきな留めそ
 

 いつまでも長くこの世に留まっておろうと思うからこそ、多くの思い煩い、悩み、問題が生じるのです。もしも無目的に獣のごとく、橋の上を行きつもどりつしていたら、往生できず、魂は滅亡してしまいます。

 3年前(1966年)のことですが、韓国を訪ねたおりに、昔、住んでいた釜山の私の家の前を通ったことがあります。その付近は日本人の金持ちがおりまして、人々は「福田さん、香椎さん、立石さん」と言って、ほめはやしたものでした。しかし今、戦後になって20年目、同じ場所を歩いてみると、富める人も貧しい人も日本人はだれもおりませんし、私の旧宅も見知らぬ人が住んでいます。私の会社の工場も跡形なく、一切が変わっておりました。

 私は一種の終末観というか、寂漠を禁じ得ませんでした。だが、大きな教訓は、すべてがこうなるのだということです。今、皆様とこうしてお交わりしておりますが、やがて楽しい思い出だけが残り、すべては変わるでしょう。そう思いますと、ひとつの無常観が私を取りまきます。それは消極的なことのようです。しかし、私にはそうではなかった。世は無常だ、そうならば最後、精一杯に生き抜いてみようという感慨が湧きました。

 10年前、初めてイスラエルに行きましたときに、新聞(『エルサレム・ポスト』)でこんな話を読んだことがあります。

* * *

 ネゲブの砂漠に新しいキブツ(村)を造るのだが、たいへんな炎熱の場所で、とても働けたものではない。ところが、ひとりの老人がどこからともなくやって来て、「若い人たちよ、新しい村造りはたいへんだろう。なにか私にできることがあったら、しよう」と言って、毎日、枯れ木ばっかり集めてきた。ヘンな老人だなあ、とみなは軽蔑していた。

 30日もすると、砂漠のあちこちから集めてきた枯れ木が山のように積み上げられた。そんな枯れ木で何をするのか、と見ていると、今度は、それで小さなトンネルを作りだした。その上にアンペラや草の葉を持って来て、その枯れ木の小トンネルの上に積んだ。みな、いぶかしがっていたが、焼けるような気温50度以上の石の荒野も、そのトンネル内の草陰だけは、なんと涼しいことであろう。みんなをその涼風吹きそよぐ中に招じ入れて、午睡をすすめてくれる。

 今までヘンな老人だと思ってみていた人々は、聖者と仰ぎたいような気持ちになった。遠く山肌から吹き渡ってくる涼しい風に、直射日光を避けて寝ころんで聞く老人の話は、青年たちの心に大きな未来の夢を見せてくれる。ところが、数日後に、その老人はどこへともなく姿を消した。それで、もしその老人の詳しい住所と氏名がわかるなら、教えてほしい。

* * *

 私はこの記事には、いたく感動しました。老いぼれた体で、自分の身分も明らかにせず、ただ新しい理想を築く人々のために、枯れ木をいっぱい拾って、涼しいトンネルを作ってやった。ああ、この人は、地上を愛しながらなんらの報いを求めず、しかも自分の分際を知って、後につづく人々のため、「架け橋づくり」に精一杯生きた人でした。こんな人があったればこそ、栄光の村は建設されたのでした。

 この世は橋であるからには、次の世代のためにこの世を通過しやすくしてあげることは、私たちの義務です。いつまでもここに留まるものでないと思えば、ものの考え方が違ってきます。

 今から24年前(1945年)の、終戦を迎えた8月の末のことでした。私は朝鮮の京城をいよいよ立ち去るときに、懇意にしていた友人の金さんの家族を訪ねました。彼らも、戦後どうなるであろうかと案じていましたが、私は当時のお金で5万円を置いて帰ってくることができました。それは朝鮮銀行券で、日本に持ち帰っても通用しないものでした。

 同様にこの世の富は、あの世までは通用しません。それにしても久しぶりにかの地を訪ねてみて、あの時、金さんの奥さんにあのようにしていて良かったなあ、と心から思いました。

 この世において、この世への執着から逃れて生きることができるとき、私たちは自由です。そして楽です。思い切ったことができます。すべてのことの割り出し方が違ってきますから、かえってこの世で成功する道も見いだすものです。

 私たちは、宗教的な「来世」という立場に立って生きたら、どんなに強いか! そして、どんなに悔いなき一生を送ることができることか! そうであれば、この世の富などは転がりこんできます。みみっちく貯めたりするものでないことがわかりますよ。

 ともあれ、この世がなんであるかが、真にわかりますと、地上で富んでいるとか貧しいとか、学歴があるとかないとか、運命が悪いとか、そんなことは小さいことだ! 人生、泣くも笑うも同じだ、と達観して歩くことができます。

 「この世は橋である」。それだけに、もっと良い橋を残して来世に立ち去るのは、私たちの義務であり、尊い特権ではないでしょうか。

 (1969年)

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/10/06/010156