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神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(神の至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

🎶In Your Presence  ~臨在を呼ぶ讃美48

讃美

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歌詞が的を射てるなぁ。

祈りの中で90  ~感謝しつつ、主の門へ

祈り 十字架(殉教)

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本日の礼拝では、賛美の中で閉ざされた黄金門に十字架状の隙間ができ、そこから礼拝者が大庭へ入る幻が見えた。そのあと、奇しくも導かれた者が詩篇第100篇を口ずさみ預言した。賛美の歌詞も普通で、何の共有もない所で、同じものを見ているようだ。臨在がそうさせるのだろう。

 

「感謝しつつ、の城門に入り、賛美しつつの大庭へ入れ.に感謝し、の御名をほめたたえよ。

まことにエホバは、善である.の慈愛は永遠であり、の信実はすべての世代に及ぶ。」詩篇100:4-5(回復訳)

感謝でありました。 

「門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。」詩篇24:7(口語訳)

 

💚エデンの園の木 〜蛇は偶像へ誘導する

ひとつの目 警告 十字架(殉教)

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 ※十字架は偶像ではなく、いのちの木。イエスは、わたしを食べろと言っている。

エデンの園で蛇は、いのちの木を示さずに神が禁じた善悪の知識の木を指して、その実を食べるようにエバにささやき、騙した。それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた。見えるものに心奪われたのです。善悪の知識の木とは、善だけに生きていたアダムとエバにとって、真の神に背き、悪を行うことを知る木だったのです。

二つのうち、間違った方へと巧みに言葉がけして誘うのが、サタンのやり方でした。

現代も神が十戒で禁じた偶像崇拝について、いろいろと理由をつけて、騙そうとしている巧みな詐欺師=古い蛇がいます。イエスが示したいのちの木よりも、食べるに好ましいと言って、違う物に目を向けようとします。

園の中心に在ったいのちの木は、十字架に似ています。いのちの木の実は、口に甘くはなく、食べにくいものです。十字架は、偶像ではなくこの三次元の世を架けるためのものです。天国に通じる門です。

「しかし、わたしには、わたしたちのイエス・キリストの十字架以外に、誇るようなことが断じてあってはなりません.そのを通して、この世はわたしに対して十字架につけられ、わたしもこの世に対して十字架につけられてしまったのです。」(ガラテヤ6:14)回復訳

サタンは、今も中心(まと)からはずれた悪の知識の木=神と違う方向への執着=偶像を指して、だまそうとしているのです。

神と人との関係は、恋愛関係に似ています。神は、他のもの=神に代わる像=偶像 を拝む者をこころよく思いません。

「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。」(出エジプト記‬ ‭20:3-4)口語訳

モーセの時代より、示されている戒めです。汎神論=一切のものは神の顕現であるとしながらも、だから複数の偶像崇拝容認するという宗教もあります。また、過去に真理を求めた宗教家には、ある程度いのちの木に近づく者もいたはずです。しかし、時代を経ていつしか戒めと異なることを教える宗教に変化しています。現代では、全く異なる複数の宗教や俗な教えや神仏を一緒くたに同一視する宗教も多くあります。しかし、人に作られた偶像を崇拝するような宗教は、真の神の御心にはかないません。木や土石の像を拝むような下等な宗教では、救われません。そんなものに宿るのは、悪霊だけです。

ローマ時代の十字架は、忌むべき磔の刑罰です。しかし、われらを贖うためにご自身を捧げられた主イエスを幻視するのです。十字架は、門です。通過する入り口であり、自分自身を架けるべき場所でもあります。イスラムの人たちや多くのカトリックをはじめとするキリスト教徒も誤解しています。罪の赦しのための燔祭のいけにえが十字架です。また、主イエスは、信仰の創始者であり、完成者であります。

「わたしたちの信仰の創始者、また完成者であるイエスを、ひたすら見つめていなさい.彼はご自分の前に置かれた喜びのために、恥をもいとわないで十字架を耐え忍び、そして神の御座の右に座しておられるのです。」ヘブル12:2(回復訳)

信仰の創始者、完成者、主イエスを通して、その先におられる父に祈ります。主イエスも父なる神のみに向かって祈っています。ただ、十字架という次元の裂け目に御子イエスと天の父が垣間見えるのです。

わたしは門である.だれでもわたしを通って入る者は救われ、また入ったり出たりして、牧場を見いだす。」(ヨハネ10:9)回復訳

また、偶像崇拝とは、神よりもこの世にある物質を愛すことを指します。お金や土地や財産・家屋などを愛することも同じです。三次元のものを主よりも愛することが偶像崇拝です。われわれの心は、聖霊に満たされ天国の喜びを垣間見たときに、全財産をはたいて宝の隠された畑を買う者、全財産をはたいて高価な真珠を買う商人のようになるのです。 

天に宝を見出せば、天に心を向けることができます。天に国籍を移せるのです。

「天の王国は、畑に隠されている宝のようなものである.人がそれを見つけると、隠しておき、喜んで行って、持っているものをすべて売り払い、その畑を買う。また、天の王国は、良い真珠を捜している商人のようなものである.非常に高価な一つの真珠を見つけると、彼は行って、持っているものをすべて売り払い、それを買った。(マタイ13:44-46)回復訳

この宝のために、自分の命さえも惜しまない者たちが使徒行伝時代には多くあったのです。 この宝とは、無償の愛につながります。そこに二つの戒めがCrossしております。

♫For Your Name Is Holy ~臨在を呼ぶ讃美47

讃美

天の至聖所を見に行きましょう!

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かつて、敬愛する師もこのように天に遊ぶ経験をしたのでしょうか。

この歌の作者も同じような霊的体験をしていると思います。

♬黙示録の歌 〜臨在を呼ぶ讃美46

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勝ち得て余りあり ~ローマ書8章

祝福 臨在 天国

ハレルヤ!われらには、執り成していてくださる方がいる。

ローマ8:31ー34・37

31それでは、これらの事柄に対して、わたしたちは何と言いましょうか? ❶もしがわたしたちの味方であるなら、❷だれがわたしたちに敵対し得るでしょうか?

32❸ご自身御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべてのために御子を渡されたが、どうしてと共に、万物を無代価でわたしたちに賜わらないことがあるでしょうか?  

33❹が選ばれた者たちを、だれが訴えるのですか? ❺わたしたちを義とされるのです。

34❻だれが罪に定めるのですか? ❼キリスト・イエスは死んで、さらに復活させられ、の右で、わたしたちのためにとりなしておられます。

37しかし、❽これらすべての事柄において、わたしたちを愛してくださったを通して、わたしたちは勝ち得て余りがあります。(回復訳)

以上を 箇条書きでまとめると、

❶神がわたしたちの味方。

❷だれもわたしたちに敵対しない。
❸ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちのために渡され、万物を無代価でわたしたちに賜わる。

❹神が選ばれた者たちを、訴える者はない。
❺神がわたしたちを義とされる。
❻だれも罪に定めない。

❼キリスト・イエスは、神の右で、わたしたちのためにとりなしておられる
❽すべての事柄で、わたしたちを愛してくださった方を通して、わたしたちは勝ち得て余りがある。

ローマ書で、パウロがわれわれに語ってくれているようです。

悔い改めばかりして、いつも自分を見て罪に定めている信仰の薄い日本のクリスチャン、どっちを見て生きているのですか。十字架こそが正解です。早くこの狭き門を通過してしまいましょう。(悔い改めメタノイア⇒義化⇒✟聖化⇒栄化)

信仰において全き者になりとうございます!

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✟偽りに満ちたこの世からの解放 ~十字架~

十字架(殉教)

あぁ、なんと慕わしい十字架。弟子たちが、みな進んだ道。世人が涙を流す別離ではない。悲しみではない。墓場に向かう虚しさでもない。

全く違う。

十字架は、歓喜そのものだ。愛する方のために生命をかける決意。十字架は、第一と第二の戒めの完成そのものだ。愛の交叉(CROSS)そのものに見える。世の宗教や世人には、決してわからないだろう。十字架を敗北や悲しい死ととらえる者に、この狭き門の救いは見いだせない。

マタイ22:36-40より     

先生、律法の中でどれが大切な戒めですか?」

イエスは彼に言われた、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたのであるを愛しなさい』。これが大切な第一の戒めである。第二もそれと同じである.『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。これら二つの戒めに、すべての律法と預言者がかかっている」。(回復訳)

「On these two commandments hang all the law and the prophets.」
‭‭Matthew‬ ‭22:40‬ ‭KJV‬

すべての律法と預言者が架かっているのだ。

 

あぁ、慕わしい十字架よ。偽りに満ちたこの世からの解放。縦木は、心、魂、思いを尽くして神である主を愛する愛。 横木は、自分と同じように隣人を愛する愛。そのCROSSが十字架だ。愛のために張り裂けた心臓。この消え去るべき三次元を超える愛の勝利。此処にすべての律法と預言者が架かっている。十字架がわからないこの世(三次元)に生きる者に、通ることはできない門。多くのクリスチャンも仏教徒イスラム教徒も、この狭き門を悲しい死や敗北と考える者には見出せない。十字架は歓喜の門なのだ。十字架は、決して拝むべき偶像ではない。私の罪の贖いのために血を流される近しい友なる主を、涙の中で仰ぎ見るのだ。愛のCROSS。高次元の昇華された精神の狭き門だ。イエスが開いたこの愛の門を通って天を垣間見、天父にまみえるのだ。

わたしは門である.だれでもわたしを通って入る者は救われ、また入ったり出たりして、牧場を見いだす。」(ヨハネ10:9)回復訳

【殉教に突き進んだ使徒たち】
ペテロの弟アンデレ:ギリシャではりつけの刑で殉教

バルトロマイ:アルメニアで鞭打ちにより殉教
アルパヨの子、小ヤコブ:イスラエルの神殿で石打の刑で殉教
ゼベダイの子、大ヤコブ:ヘロデにより斬首され殉教
ヨハネ:パトモス島へ幽閉、釈放後老齢で生涯を終える

マタイ:ヒエラポリスで刀で斬られ殉教
ペテロ:ローマで逆さはりつけの刑で殉教
ピリポ:はりつけの刑で殉教
熱心党のシモン:ギリシャで鋸で2つに斬られ殉教

タダイ:アルメニアで斧で撃たれ殉教
トマス:南インドで槍で刺され殉教

イスカリオテのユダ:イエスを裏切り自殺
マッテヤ:ユダの代わりに使徒となったが石打ちの刑の後、斬首され殉教

パウロ:あとから使徒に数えられたが、ローマで斬首され殉教

*以上、聖書記事と伝承による

 

彼らは、なぜすすんで殉教して行ったのか?

 アンデレの殉教から、学びましょう。

 アンデレは、7人の兵士にひどくむち打たれたあと、彼らはアンデレの苦しみを長引かせるためにひもで彼の体を十字架にくくりつけました。彼が十字架に引かれて行ったとき、彼は次のようなことばをもって十字架にあいさつしたと彼の弟子たちは報告しています。「私は、この至福の時を長いこと待ち望んできた。十字架は、キリストのからだがかけられたので、神聖なものとなったのだ。」アンデレは、迫害する人々に死ぬまでの二日間、説教し続けました。アンデレが、十字架上で二日間も語り続けたわけは、彼が聖霊に満たされていたからです。死など恐れない、やがて来る天の栄光を垣間見て、十字架を至福と言えるほどの満たし。天国人の生きざまが見えます。

パウロはガラテヤ書でこう言っています。

ガラテヤ6:14

「しかし、わたしには、わたしたちのイエス・キリストの十字架以外に、誇るようなことが断じてあってはなりません.そのを通して、この世はわたしに対して十字架につけられ、わたしもこの世に対して十字架につけられてしまったのです。」(回復訳)

この「誇る」という言葉は、「喜ぶ」とか「大喜びする」と言う言葉に訳すこともできるそうです。

「わたしには、わたしたちのイエス・キリストの十字架以外に、喜ぶことが断じてあってはなりません.そのを通して、この世はわたしに対して十字架につけられ、わたしもこの世に対して十字架につけられてしまったのです。」

十字架は、喜びです。大きな喜びです。この肉の死と偽りが支配する厭な世から、解放される愛の門です。十字架は、通過すべき門です。

そして多くの聖徒たちは、喜びをもって進んで十字架へ向かったのです。彼らはキリストの死と同形化され、栄光に満ちた天国の永遠の命を賜ったのです。ハレルヤ!

ピリピ3:10-11

キリストの復活の力との苦難の交わりとを知り、の死に同形化されて、何とかして、死人の中からの格別な復活に到達するためです。」

ピリピ3:21

キリストは、万物を彼ご自身に服従させることができるの活動によって、わたしたちの卑しい体をも変貌させ、それをの栄光の体に同形化してくださいます。」(回復訳)

私も、キリストに倣い、多くの聖徒のように、聖霊に満たされて天を待ち望む者になりたい。バール シェム トブのように、死んでからも多くの人々に現れるような、天地や時間を超越した栄光体に変えられたいと願うものです。

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~But God forbid that I should glory, save in the cross of our Lord Jesus Christ, by whom the world is crucified unto me, and I unto the world.~

Oh, what a beloved cross. The way which every saints went  through . It is not the separation that people shed tears. It is not sorrow. It is not emptiness in the graveyard.
Totally different.
The cross is delight itself. It's the perfect "Love". The determination to give up your life because of "Love".
Matthew22:36-40
~Master, which is the great commandment in the law?
Jesus said unto him, Thou shalt love the Lord thy God with all thy heart, and with all thy soul, and with all thy mind.
This is the first and great commandment.And the second is like unto it, Thou shalt love thy neighbour as thyself.On these two commandments "hang" all the law and the prophets.~

On the CROSS  "hangs" all the law and the prophets.
 I think CROSS  itself is the cross of two commandments. The vertical pillar
is the Love towards the Lord. The horizontal bar is the Love for your  neighbours.
Most people never know it. The person who regards a cross as defeat and death cannot find this narrow gate.