神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

祈りの中で102 〜我らの的はずれを赦したまえ

風呂に入って身を清め、ひとつのイメージの中で夜の祈りの中に入りました。いつもより眩く、たくさんの幻視が来ました。

①父と子の関係とは、血縁の家族の関係だ。ことばを交わさずとも、父の考えていることがわかり、子の思いがわかる。年を経ればなおさらに父と子の思い、互いの配慮と行動は、まるでひとりの人のようにひとつとなる。ときに、父は子のために生命を捨てる。子も父のためにいのちをかける。あなたは、創造主と、父と子の関係にあるのです。それは、どういう関係なのか、その重大さ、その恵福はどんなに絶大なものかを知りなさい。

 

②大衆の面前で裸のまま十字架に釘付けにされ、晒されたことがあるか?家族や友人の前で。ひとつの目で天を眺むとは、この世で十字架に架かることだ。何千という人々がののしり、赤面し、涙を流し、心乱すなか、あなたは、心を乱さずひとつのイメージの中で死ぬことができるか?この世を十字架に架けるとは、そういう体験だ。天を眺む者の生きザマとは、父から目を離さず、どんな状況でも無畏心でいることだ。この世のイメージを捨て去るとき、この世界は、十字架に架けられるのだ。

ガラテヤ2:20を口にするクリスチャンは、たくさんいる。しかし、この世を十字架に架ける者は、本当に少ない。あなたは、家族、友人、大衆の面前ですべての財産を奪われ、鞭打たれ、一糸纏わぬ裸のまま十字架に釘付けにされ、晒されることを、慕わしいと思うか。あなたは、永遠のいのちのために、あなたの大切な家族、友人、財産、いのち、尊厳までもこの世の全てとともに十字架に架けることができるか。十字架に架かるとは、そういうことだ。殉教した我が弟子たちのように、十字架を慕わしいと思うほどに天国を求め、神の義である十字架を求めることができるか。

 

③我らの的はずれ(罪)を赦したまえと祈るが、的はずれとは、何か?神の国と神の義を求めないことではないか。おまえの兄弟たちは、神の国を垣間見ず、祈りの中で滅びゆく世のものを求めるのは、なぜだ。わたしが教えた祈りに、この世のものを求めたことがあっただろうか。我らの的はずれを赦せと言うなら、病気や煩いや不満を感じていることを悔い改めよ。病いが治らない不信仰を悔い改めよ。この世の煩いや不満を感じる心は、天に向かってはいない。神の国と神の義を求めていない心があるなら悔い改めよ。真に神の国と神の義を求めているなら、そのあとで、父にお願いすればよい。父は、あなたが求める前にその必要をわかっておられることを知れ。神の国と神の義を手にすれば、この世のものは添えて与えられる。

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