東洋の聖フランシスコと呼ばれたサンダー・シングが、祈りの中で法悦(エクスタシー)に入って天に昇ったときに、わからない聖句について天使や聖人に尋ねることがありました。その話から、父がわれわれに「完全であれ」と言われる理由も明らかになります。
〜以下、サンダー・シングの話〜
かつて、ある集会に出席したときに、ひとりの素朴な村人が祈っているのを見た。彼は平和と幸福に満たされ、歓喜に触れて、❶「主よ、ありがとうございます。ありがとうございます。でも、これ以上は入りません。死んでしまいます。もう充分です。充分です」と祈っていた。私は、彼がこの状態を終わらせたがっているのを知って、非常に驚いた。この時、私はモーセの話を思い出した。神はモーセに「私の顔を見て生きられるものはいない」と言われ、モーセは主を背後からしか見られなかった。霊はこのような至高体験に耐えられるが、肉体は耐えられないのである。******
そこ(天上界)では、この世で知っていた願いばかりか、自分が持っていることさえ知らずにいた願いまでもが開かれ、実現されるのを知る。❷願いを満たすもの全てがそこにある。私はそこで満ち足りる。それ以上求めるものは何もない。本当に素晴らしい世界である。それこそ、私たちの故郷である。
私(サンダー)は、聖ヨハネ福音書にある❸「あなた方は神々である」(ヨハネ10:34)と言う言葉の意味を聖人たちの一人に尋ね、次のような答えを得た。人は数知れぬ願いを持っているが、それは天上において無限の進歩を遂げることの証しである。われわれは髪の毛の数よりも多くの可能性を、天上界において持つと。
あるとき、私はキリストの言われた❹「あなたがたは、天の父が完全であるように完全であれ」(マタイ5:48)との言葉の意味についても尋ねてみた。キリストは「聖人や天使のように完全であれ」とは言われなかった。この言葉には、いつも戸惑いを感じていた。この言葉は、我々が神になることを意味するものだろうか。もしそうなら、神にそむくことになりはしないか。
この疑問に対し、彼らはこう答えた。❺神は我々が神と等しくなるよう求めておられる。なぜなら、愛は愛の対象が自分と等しくなることを求めるからである。人が動物をただ愛するだけでは満ち足りないように、神は我々が神と等しくなることをお求めになっている。だが、我々がそうなっても、神に反逆することはできない。その時には、❻神の愛についても限りなく知ることになり、それが限りない感謝の気持ちを起こさせるからである。
天では、嫉妬というものはない。われらが天の父は、我々が父と等しくなるよう求めておられる。天においては嫉妬は全くない。段階の違いというものがあっても、不和はひとつも存在しない。誰もが常に、ほかの誰かの立場に立つ。低い段階の者は、高い段階の兄弟たちの大きさをむしろ誇りに思う。
〜サンダー・シング 「天上界の諸相」より
私も、❶聖霊の満たしに、村人と同じような祈りをしたことがあります。確かに、圧倒的な天国の喜びが腹から湧き上がると、身体がはじけそうになり、この世の肉体は至高体験に耐えられないと感じます。このことが、肉体を持つ者にとって、栄光体への変化を困難にする要因かもしれません。サンダーの言うとおり、霊はこのような至高体験に耐えられるが、肉体は耐えられないのです。
❷思ったことが、実現する世界が天国です。それは、以前に記事にしました。→http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2016/10/26/035622
❸「あなた方は神々である」(ヨハネ10:34)とは、衝撃的な聖句です。それは、❹「あなたがたは、天の父が完全であるように完全であれ」(マタイ5:48)に繋がります。サンダーの言うとおり、❺神は我々が神と等しくなるよう求めておられ、愛は愛の対象が自分と等しくなることを求めるからだとしたら、アブラハムにも語った同じ聖言が、栄化の目標となります。つまり、❹天の父が完全であるように完全になり、❺我々が神と等しい存在になることです。それは、大きな力を持った傲慢な者になるのではなく、❻神の愛について限りなく知ることにより、それが心に限りない感謝の気持ちを起こさせるのですね。なるほど、ヨハネ伝17章の主イエスの語った愛による合一にも繋がってきます。サンダー・シングは、確かに天界へ往き来していたようです。彼の祈りと瞑想の方法を知りたくなります。
2019.6.28撮影 十字架を見上げる
http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2019/06/16/011459
2017年に見た十字架
http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2017/09/19/230742