神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

霊眼が開かれるとき2 〜サンダー・シングSS25

東洋の聖フランシスコとよばれたインドの聖人サンダー・シングは、その著書「霊界の黙示」の中で、霊の目が開かれたときのことについて語っています。

サンダー・シングの話

❶ひとりで祈っていたある日のことである。私は突然、霊的な存在の大群衆に囲まれているのに気づいた。あるいは、私は霊の目が開かれたとたん、聖徒や天使の大集団の前で頭を垂れているのに気づいたといってもいいかもしれない。彼らの明るく光り輝く状態を目にし、自分自身の劣った状態とそれを比較して、最初はなんとなく決まりが悪かった。しかし、彼らのその思いやり、愛から生じる親しみやすさとによって、すぐにくつろいだ気持ちになれた。私はその時もう、神の御前にいる時の安らぎを経験して知っていたのだが、これらの❷聖徒たちとの交わりは、私に新たな素晴らしい喜びをもたらしてくれた。一緒に話をしているとき、私を悩ませていた多くの問題や悩みについて質問し、彼らから答えを得ることができた。

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私は❸幻の中で、霊の世界に着くや否や自分の神を探し始めた。偶像崇拝者の霊を見た。その時聖徒は彼に「ここには唯一真である神とその神の顕現であるキリストのほかに神はいない」と言った。これを聞いたその人は非常に驚いたが、真理の誠実な追求者であったので、彼は自分の間違いを素直に認めた。彼は真理に関する正しい考え方をどうしても知りたかった。そこで彼は、キリストに会えるかどうか尋ねた。この後ほどなく、キリストは彼と、霊の世界に着いたばかりの人々の前に、薄暗い光の中で自身を現した。なぜなら、まだこの段階にいる彼らは、神の栄光を十分に見せられることに耐えられなかったに違いないからである。神の栄光はあまりにも大きいため、天使たちでさえ、神を見るのに困難で、その翼で顔を覆っているほどなのである(イザヤ書6:2)。キリストが誰かに自身を現すとき、それぞれの魂が達した心の成長段階を考慮に入れる。❹キリストは自分の御姿を目に耐えられるようにするため、ぼんやりと、あるいはもっと栄光に輝いて自身を現す

それ故、これらの霊が薄暗いながらも魅力的な光の中でキリストを見たとき、彼らは、私たちの表現力を超越した喜びと平和に満たされるのである。生命を与える神の光を浴びて、絶え間なく溢れ出る神の愛の波によって、彼らの誤りは、全て洗い流されてしまった。彼らはその時神の真なることを心から悟り、癒しを見つけて神の前に低く頭を垂れて感謝の心で神を称えるのだった。そして彼らの指導に指名されていた聖徒たちもまた、彼らを見て喜んだ。

〜以上サンダー・シング  「霊界の黙示」より

  サンダー・シングは、❶ひとりで祈っているときに、霊の目が開かれ、霊的な存在の大群衆に囲まれているのに気づいた。強く粘っこい臨在を経験している方は、霊眼が開かれると、聖徒や天使の大集団が見えるかもしれません。

また、❷聖徒たちとの交わりが可能となり、一緒に話をしているとき、私を悩ませていた多くの問題や悩みについて質問し、彼らから答えを得ることができたとあります。主イエスから、直接聞くことも可能なはずです。

また、❸幻の中で、霊の世界に着くと言っています。ひとつの眼(霊眼)は、天に至る門でもあります。そこでキリストを拝するのです。❹キリストは自分の御姿を各自の目に耐えられるようにするため、ぼんやりと、あるいはもっと栄光に輝いて自身を現すとありますが、各自の段階で、神の栄光を十分に見せられることに耐えられない私のような者には、はっきりとはご自身を現せないのでしょう。天をぼんやりとしか見えない理由について、先日示されたときと同じ内容をサンダーが話しているので、驚いています。

イザヤ6章

6:2その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、
‭‭6:3互に呼びかわして言った。「聖なるかな聖なるかな聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。( ‭口語訳‬‬)

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2019.1.10撮影