神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

天の御座のキリストを見よ 〜サンダー・シングSS18

サンダー・シングの話〜

「天界では、肉眼によってではなく、❶霊眼によってものを見る。わたしは、この霊眼が、肉体を離れ去った後で、誰もが使うものであると言われた」。

天界の中央はキリストである。キリストが中央にありながら、どこに行ってもそこにいると言う。*❷「神の中心はすべてにあり、神の円周はどこにもない」とのべた聖ボナヴェントゥラ(1221-1274)は、天界を垣間見たに違いない。「❸御座のキリストが常に中央にある。それは言語に絶するほど神聖な御姿である。恍惚(エクスタシー)の際にわたしが拝したその御姿は、わたしが回心の時に見た御姿と全く変わらなかった。主は、御血の流れる傷跡を今もお持ちである。傷は醜くなく、美しく栄化されている。御顔にはひげがあり、長いひげは黄金のよう、輝く光線のようである。御顔は、照り輝く太陽のようである。しかし、その光はわたしを幻惑させることはない。優しい御顔である。常に微笑み、愛らしく輝く笑みを湛えられている。恐ろしい御姿では決してない。

キリストの御座の周囲には、輝かしい霊的存在者たちの大群衆が、どこまでも広がっている。聖徒たちもいれば、天使たちもいる。その違いを見分けることができない。違いは重要ではない。われわれは皆一つである、と彼らはわたしに語った。彼らは皆、キリストの弟のように見える。彼らは皆栄化されているが、主の栄光は、彼らよりもはるかに輝かしい。また彼らは栄光の度合いに違いがあり、それは色の違いにも似たところがあるが、それほどはっきりしたものではない。

彼らの衣は、いわば光でできていると言ってよい。眩しいものではないが、多くの色彩を帯びている。そこでは、この世界よりはるかに多くの色がある。その美しさと比べれば、ダイヤやその他の宝石さえも色あせる。わたしに語りかける時、彼らは❹一瞬のうちにわたしの心の中に思いを注ぎ込む。それは、地上において、相手の話そうとすることが、話す前からわかるのにも似ている。わたしは、霊界の言語を学ぶ必要はなかった。体を離れてあの世界に入るとき、われわれはいとも容易に、ごく自然にその世界の言語を話し始める。それは、新生児がこの世に生まれ出る瞬間に、全く未経験であるにもかかわらず、すぐさま呼吸をし始めるのと同じである。〜サンダー・シング「Visions of the Spiritual World (London: Macmillan, 1926).聖なる教え」より

天界を見る❶霊眼は、マタイ6章にあるひとつの目のことです。

マタイ伝6章

6:20むしろ、自分のために天に宝を蓄えなさい.そこでは、しみやさびが食い尽くすことはなく、盗人が穴を開けて盗むこともない.
6:21なぜなら、あなたの宝のある所に、あなたの❺心もあるからである。
6:22❶目は体の❻🔥ともし火である。だから、あなたの目が❼単一であるなら、あなたの全身は光に満ちる.(回復訳)

 

❶霊眼は、❺心を天へと持って行くことです。❼単一の方向へ目を向けて、❸御座のキリスト、聖徒たち、天使たちを見るだけでなく、❹一瞬のうちに心の中に注ぎ込む天の言語が理解できるとサンダー・シングは言っています。

天界を見る❶霊眼は、再臨の日に必要な❻🔥ともし火であるのでしょう。

サンダーは、祈りと瞑想の中で❻🔥ともし火を手に入れたのですね。

 

*❷「神は無限の球体である。その中心は到るところにあり、その円周はどこにもない。」は、パスカル(1623-1662)の「パンセ」にもある一文。

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