聖なる教え サンダー・シング の体験した宗教
サンダー・シングは、ヒンズー教の一派であるシーク教の家に育ち、小さい頃から様々な宗教書を読みあさり、真の救いを求めていました。7歳の頃には、ヒンズー教の聖典バガバッド・ギーターを暗唱し、15歳の頃には、すでにイスラム教の聖典コーラン、インドの聖典ウパニシャッド、ヴェーダ、シャーストラ、グラント、仏教の聖典などを読破していました。しかし、魂が満たされなかったのです。そして、追い詰められて「ああ、神よ、もし本当にいるなら、私に正しい道を示してください。そうすれば私はサドゥーになりましょう。さもなければ死にます」と自死を覚悟したとき、自宅二階屋で、光が部屋を照らし、輝く光輪が床の上に広がり、慈愛に満ちた神のような方が現れたと言っています。
釈迦かクリシュナか、インドの神仏かと思いましたが、ヒンドスタニ語で「お前は、なにゆえわたしを迫害するのか。わたしはお前のために十字架上で、我が身を捨てたことを思い起こせ」と響きわたったと言います。
サンダー は、その方の両手、両足、脇腹に傷があるのを見て、二千年前に死んだイエス・キリストが目の前に現れたと悟ったと語っています。サンダー が敵視して、聖書を破り迫害していたキリスト教の神が現れたのでした。
「イエス・キリストは、死んでない。この方は、イエスご本人だ」。サンダー は、イエスの足元に平伏したその瞬間、彼の全ての存在が変えられた。彼の霊魂を言い知れぬ平和と歓喜で満たした。サンダー は、「ヒンドスタニ語、英語、ウルドゥー語でも、あの時の至福の気持ちは、決して言い表せない」と後日、述懐しています。そのときから、彼は、迫害していたキリスト教のイエスに魅了され、キリストの弟子となりました。彼は、シーク教の家族から殺されそうになり、家を出るのでした。
インタビューに対する答えのかたちで、サンダー が宗教について語った内容
Qどの宗教も同じようなものではないですか。どれも善行を解いているのではありませんか?
「確かに。だが、一つだけ大きな違いがある。他の宗教は、できるだけ善を行え、そうすれば善人になると教えているのに対し、キリストは、善くなりなさい、そうすれば善を行えるようになる、と教えている。善は、善なる心から自然に出てくるからだ。心の変化がまず最初に来なくてはならない」
Q釈尊とその教えについてはどう思われますか?
「釈尊は神秘家ではなく、倫理的教師である。彼の教えの中には神について一言もないからである。これには驚かされる。彼はニルヴァーナ(涅槃)、つまり欲求の止滅を説いたが、救いは欲求の止滅にあるのではなく、欲求を満たすことにある。渇きを扱う正しい方法は、それを殺すことではないーーそれは死を意味するーー満たすことである」
「私は、ヒンズー教の修行僧にこのように声をかける。『あなたは自分を苦しめたいがためにサドゥーになった。私は奉仕するためにサドゥーになった。私は人から苦しめられる事はあっても、自分を苦しめたりはしない』。インド人は、神の満ち足りを発見する前に世を捨て、自分を否定する。彼らは、自己否定のために自己否定をするが、それは平和を見出したからではなく平和を勝ち得たいがためである」
「ヨーガ行は、私にはあまり役立たなかった。ある程度まで助けになったに過ぎない。その助けも霊的なものではなかったので、自分には無用なものとなった。イエスが、精神集中を実修せよとも、霊的修行をせよとも言われなかったのには、いつも驚かされていた」
「自分がヒンズー教徒だった頃は、毎日、瞑想に何時間も費やした。それは、自分の霊的能力を育てる助けをしたかもしれないが、霊的実在を理解することはなかった。ある種の観想の意味するものは知ったが、祈りの経験がなかった。この両方を実践するときに、神自らがご出現になったのである。長い期間瞑想に費やしても平和は得られなかった。祈り始めたときのみに神の臨在を感じたのである。イエスに捧げられるただーつの祈りは、どのような瞑想にも勝って私を助けた。
少し前に、私は瞑想についてラビンドラナート・タゴールと話をしていた。瞑想を通して多くのことを学べるが、霊的事柄を理解するにはそれ以上のことが必要である、と私は話した。キリスト教において、私はごく単純な方法ー祈りーを知った。それは、どんな時にも通れる道、最も単純な道である。祈りを通して、私たちは神を知るようになる。祈りは、瞑想中に受けたものの中から、真実なものと無用なものとをふるい分ける。それは、真の祈りの中で、神が魂の最奥部、最も敏感な部分ー良心ーを照らし出して下さるからである」〜サンダー・シング 「聖なる教え 宗教について」
確かに、祈りに応える神がいる。サンダー が経験した、不思議な救い。そのキリストに出会う体験は、キリスト者の信仰の基礎であることは、間違いないのです。パウロしかり、手島郁郎師しかり、キリストの現れは、私にとっても人生を変える驚くべき喜悦と平安の体験だったのです。