〜敬愛する師の話〜
東洋の一角に生まれたイエスの教えとその霊的神秘は、永い間、理知的な西洋人種には看取され得ずにいた。ここに、キリスト教の深い一面を私たちが新しく霊覚し、その生命の秘義を新しく顕揚すべき使命を担っていることは、東洋人としての当然の任務であろう。
内村先生は『第二の宗教改革の必要』と題して、かく言った。「われらは第二の宗教改革を要する。ルーテルの行いし以上の改革を要する。信仰のみでなく、信仰の上に愛を加える改革を要する。ガラテヤ書ならで、ヨハネ書による改革を要する。信仰のみでなく、信仰を経過して愛に到達せる改革である。ルーテルの改革を改革する改革である。神はかかる改革を、我ら日本のキリスト信徒に要求し給うのではあるまいか」と。(大正6年、内村鑑三『ルーテルの遺せし害毒』)
「信仰のみ」と称して、教理を知っても、聖霊を知らず、「聖霊の愛」に生きていないクリスチャンは、未だ、「義人は信仰によりて生くべし」(ガラテヤ書3・11)との真義を知らぬ者である。今なおキリストを十字架に釘殺(つけ)ているものである。「キリストにある神の愛」に接木されずに、未だ「聖霊の愛」の恩化に育まれていない現代キリスト教徒は、「キリストの御霊なき者にして、キリストに属する者にあらず」(ロマ8・9)というほかはない。〜1950.8.26〜
師の目指したものが、内村鑑三師の語っていた「第二の宗教改革」であることがこの文章からもわかります。ルーテルの改革を改革する改革です。合理的で理知的な西洋人が、アジアのユダヤの出身であるイエス・キリストの霊的な啓示を理解することができなかった。サンダー・シングも西洋キリスト教国に絶望し、カイラス山に隠れてしまった。アジアに生きる者こそ、この聖書の奥義に通じ、キリスト教の深い深い部分を、新しく霊覚し、その生命の秘義を新しく顕揚すべき使命を担っているとは、本当にその通りです。我々日本のキリスト者の目標は、リバイバルにあらず、エキュメニカル運動による統一にあらず、真の目標は主イエスの説いた信仰の奥義に到達することだと思っています。信仰と言いながら、聖霊の愛に生きることを知らず、西洋のキリスト教の教理を握っていては、天を見ることはできません。「信仰のみ」の害毒に悩む現今のクリスチャンに対して、「第二の宗教改革」が必要なのです。それは、聖霊の愛に到達し生きることなのですね。リバイバルも一致も聖霊の愛に満ち満ちたあとについてくるのですね。主イエス・キリストがそうであったのです。ハレルヤ!
2018.3.30朝撮影