先週、脳梗塞で入院した。
連休中、左半身に痺れを感じたので念のため受診。
バイクで病院へ行くと検査後緊急入院と言われた。
MRIで過去の脳梗塞の痕もあり、今回の2箇所と合計5箇所の脳梗塞痕が発見された。
医者に本当に大丈夫ですか?と何度か訊かれた。
しかし、至って元気だ。身体のしびれもとれて普通に動くし、一週間の入院は、退屈だった。神に感謝だ。医者に早く出せとセッツキ、6日間で退院。退院後すぐバイクで帰り、仕事復帰し飲み会にも幹事として参加した。
しかし、その入院の間、天界とのアクセスが容易になった。天がずっと開いちゃてるんだ。浦島太郎状態。神に感謝だ。わかるだろうか。まぁあちらに近くなったんだろう。
https://youtu.be/TfCg8F4Ux58?si=bUiu6yEmtCe15ZyC
たとえるなら、↑これがずっと聴こえている感じで、SQ値の高さが半端ない。時間が瞬時に過ぎる。トマスの福音書24の体験をしたようだった。
https://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2017/07/18/211403
気になる記事を、紹介させてください。
◾️ウォルター・ラッセルとコーマ

https://www.facebook.com/share/18d7CkcbPe/?mibextid=wwXIfr
1921年5月、アメリカの博士ウォルター・ラッセルは、コーマで39日間の昏睡状態に陥り、「あらゆる知識の源泉」にアクセスしたと主張しました。目覚めた彼は、自分が見たものを必死に書き留めました。それは、後に彼の手稿『普遍なるもの』の基礎となる哲学的、科学的、そして精神的な啓示で満たされたページでした。彼はその発見を当時の500人の有識者に送りましたが、ほとんど全員が彼を狂人として退けました ― たった一人を除いて。先見の明のある発明家ニコラ・テスラはラッセルの洞察に深く感銘を受け、人類はまだその真実を受け入れる準備ができていないと主張し、その著作を千年の間封印するよう彼に促しました。
ウォルター・ラッセルの啓示は、現実の構造そのものを再構築しました。彼は、物質は固体ではなく、思考によって減速された結晶化した光であり、岩石から人体に至るまで、私たちの周りのあらゆるものは意識によって形作られた光のパターンで構成されていると主張した。宇宙は根本的に物質的ではなく精神的なものであり、万物は呼吸のように膨張と収縮というリズミカルな周期で動いていると彼は信じていた。善と悪といった対立概念は幻想として退け、すべてのものは調和と均衡を求めていると主張した。ラッセルにとって、死は終わりではなく、圧縮された光が解放されて源泉に戻ることだった。時間さえも直線的ではなく、過去、現在、未来が共存する螺旋であると彼は主張した。
これらの考えは、形而上学、波動力学、そして深い宇宙の一体感を融合させた、時代をはるかに先取りした概念だった。彼は電気は単なる電子の運動ではなく、エネルギーの生きた螺旋であり、真空の宇宙は実際には未開発の可能性に満ちた活気に満ちた海であると信じていた。彼の見解では、健康とは身体の自然なリズムであり、病気とは単にその流れを乱すものだった。ラッセルの業績は生前は無視され、嘲笑されてきたが、量子物理学や意識研究が同じ疑問を呈し始めた現代において、新たな注目を集めている。多くの人にとって、彼はもはや忘れられた奇人ではなく、未来のパラダイムの預言者なのです。
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ニコラ・テスラは、かつてウォルター・ラッセルの宇宙論のコピーを受け取り、人類がそれを受け入れる準備が整うまで、この知識を 1,000 年間閉じ込めておくように彼に促した。
しかし、現代の量子物理学により、ウォルターによる宇宙(物質)創造論の神秘が明らかになりつつあります。


ヨハネ16:13「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」
これから、さらに真理が開かれるのだろう。
ps.
ラッセルの宇宙創造論や最新の量子物理学は、この二千年前の新約のヨハネ伝と同じことを言っているだけだ↓
「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
ヨハネによる福音書 1:3-5 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/jhn.1.3-5.新共同訳
キリストは、未来から来たのか?高度文明の未来から来たのだろうか?否、過去も未来も超越した高次元から来られたのだろう。
彼と弟子たちの言葉のひとつひとつに畏怖を感じてしまう。
これまでのことやこれから起きることは、すでに新約聖書に書かれているのだから。