神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

敬愛する師4  ~師の見た天国の真実 FB

 師の文章を読んで、驚きました。同じことを示されている。以下、師の話を紹介します。
天国に入る者(師の話):「この地上において、天国の人に創り変えられない限り、次の来世に入って地獄の責め苦に遭っても、なかなか回心するものでない。地上において、すでに天国をその心に発見できた者は、どんなに幸福な人かわかりません。

          中略
 マタイ伝25章30節以下に、天国の消息を知るのに興味深い一文がある。その物語では「いと小さき一人の者が、飢えに苦しむ時に食べさせ、病に悩んだ時に見舞い、宿のお世話もして、親切にしてくれた人たちよ。さぁ、今こそ世の初めから、あなた方のために用意されている御国を受け嗣ぎなさい」と言われると、「主よ、いつ、私がそんなことをしましたか」と言って、愛を意識しないでやった無我の愛の人たちが、みんな天国に生きていることが書かれています。
 彼らにとって、愛することが習性ですから、道徳的に努力したり、意識して愛したりすることはいたしません。むしろ、当然のことを当然したまでで、褒められることがおかしくさえあるのです。天国とは、自分を捨てて他愛に生きる人の群れだからです。高い世界に行けば行くほど、この無私の愛が極度に光っています
 「しかし、私に不親切であった者たちよ、お前たちは呪われよ、悪魔とその使いたちのために用意されている永遠の火の中に行ってしまえ、このいと小さきものにしなかったのは、私にしなかったのである」と、キリストは言われると、「いつあなたが空腹であったり、渇いておられたり、病気したり、獄に入れられたりされたのを、私たちは見たでしょう。もし見たらお世話しますよ」と愛を意図的に考えている。愛に似ていても愛ではない。彼らは羊と山羊が区別されるように区別されて、永遠の刑罰を受け、正しいもの、すなわち無我の愛の人は永遠の生命を受ける。というのも、愛の類的相違が雑居を許せぬからであります。天国は一つの生命の共同体である。同じ血汐が通う細胞である。パウロがダマスコにまで近づいて、クリスチャンを迫害せんとした時、「サウロよ、サウロよ、何ぞ我を迫害するか。我は汝が迫害しているキリストである」使徒行伝9:4と言われた言葉によっても分かりますように、クリスチャンを迫害することは、キリストご自身の愛を痛めまつることでした。キリストは聖霊となって、クリスチャンの中にみなぎっておられたから、クリスチャンを叩けば、その内なるキリスト霊が痛まれるのです。愛は大宇宙の血液であって、時空を超え、越えがたい壁をも破って、かくは引きつけ合います。」  ~以上。
 この話を読んで、天国では「愛のゆえに自然に神に従い」「愛のゆえに自然に困っている人を助ける」、愛の情動により動く人たちだけがいるということを再確認することができました。それを師も感じ取られたのでしょう。アァメン。
 また私の場合は、無私の愛からでない作為的な行動もあり、反省しごくです。キリストの愛にシンクロしきれていないのです。お祈りください。
 まだはっきりわからないのですが、師は天国には階層があるという。その高い世界に行けば行くほど、無私の愛が極度に光っているというのです。天国は同じ愛という血汐が通う共同体=体であり、愛が引き合うという。愛によって、われわれは天に引き上げられるのだと言うことでしょう。不思議と思い当たることがあります。やはり師の切りこむような聖言の解放は、この世のものではないことがわかります。読んでいてすぐに涙が止まらなくなるので、ちっとも進まないのです。
 天国に入るためには、シミのひとつもない清い白い衣がなくてはならないと、しきりに話す人もいます。「私は無理だな」と思う方がいるとすれば、それは大間違いです。そう思う方こそ天国に近いのです。詩編51:17「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。 神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」とあります。悔いた心があるなら、あきらめず十字架にすがりつけ!!
 黙示録では、「白い衣を買え」と言っています。「買え」とは、つまり商品のある場所へ行き、代価(犠牲)を払えということです。犠牲が必要なのです。それは、十字架のもとへ行き、自分をあけわたす悔い改めの祈り。ただただ、キリストの血汐のゆえに、その御愛のゆえに、祈りの中で十字架のもとに行くことです。十字架のもとで、兵士たちが競って主の聖衣をほしがったように、あなたも祈りの中で、❶主イエス=キリストの名を大声でよび、❷十字架のもとに行き、❸罪を告白し、❹罪から離れる決意をし、❺「どうか私の罪をゆるしてください」と、子羊の血で罪赦されきよめてもらうべきです。キリストを着るべきです。義人はいない。罪びとばかりです。しかし、最初の義人が流した十字架上の血汐で、われらは罪赦され、贖われたのです。キリストが代価を払われたのです。この方以外に救いはない。あなたでも、私でもない、◉『救いは、イエス=キリスト 以外にない』。イエスのみもとに行け!
 また、天国の経験は、祈りの中で聖霊を受けてもたらされる恩寵です。しかし、師は言われました「私なんかは、こんな特殊な恩寵(天国の経験)のお陰でもなかったら伝道者になろうとの決心に踏み切れないので、あわれんで未熟児扱いでご養育なさるのであろう。「見ずして信ずる者は幸いなり」これが信仰の一般原則です」と。アァメン。
エス様。この世の終わりの時代に、われら日本国民のただ中に御国を来らせたまえ!「天国は、汝らのただ中にあり」と!

 

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