神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

敬愛する師23 ~悔い改めへの助言 

悔い改めても、悔い改めても古い肉が出てきて悲しむ自分。自分に何か良いものを期待するから、悔い改めるのでしょうか。悲しむのでしょうか。私は、最近も、そんなイヤな自分を見て、また悲しむのです。しかし、その悲しみとは、何なのでしょうか?わたしの罪が、今も改めようとしても出てくる罪が、十字架に架かられた主イエスの悲しみと痛みを感じさせるのです。十字架のイエスの贖いの恩寵・恵みを感じるのです。神の御前に何もない自分であることは、わかっています。しかし、それをまた再確認し、ただ主イエスの前にひざまずくだけです。自分に何か良いものがあると意識するから、悔い改めて少しでも良くなろうとするのでしょう。

結論から言うと、人間の努力からは何も改善されるべきものなどありません。人は、聖霊に満たされていなければ、肉により生きるのです。この世の人間関係やお金や生きる上でのもろもろの活動の中に、かかずりあって肉に生きるのです。ただ、聖霊により満たされて、導かれるのでなければ、的はずればかりです。聖霊により生きることが、神の国と神の義を達成できる秘訣なのでしょう。聖霊に導かれて歩んだときに、エノクのように「神とともに歩んだ…」という理由で天へ引き上げられるのでしょう。

〜敬愛する師は、以下のように言っていました~

 そのためにまず今までの考え方を捨てなければだめです。

この方はほんとに気の毒だなぁ。物質に閉じ込められて、小さな物質に閉じ込められて、なんと気の毒だろう。外側の事ばかりにかかずりあっている。しかし、なぜクリスチャンと言うならばこの見えない霊的な素晴らしい世界を、何でもそこから...神の力を信じたら、何でも与えて下さる。なぜそれを見上げないのか?

福音とは何か?「信じる者に救いを得させる神の全能の力」である。全能の力が動きさえすれば、何でもできる。「神様どうしましょう」と言ってそのエネルギーの世界でものを考えればいい。見えるところの乏しさに迷わない。仮に見えるところが砂漠であり、山の奥だったとしても、そこを天にする秘密を知っている。それがクリスチャンと言う。それがキリストの弟子だ。

そのために、まず今までの考え方を捨てなければならない。今までの考え方、今までの宗教の方程式、今まで罪が深くて、私は過去が悪いためにと言って、そんな過去までね、天国に持ち込むことは、いらんことです。ちっぽけな心で私はこんなしくじりがあった。こんな間違いがあった。こんなしくじって、もうどうしようかと言っている。神の光の射す世界に入ったら、そんなことはもう間違いでも失敗でもみんな拭って止まんようなエネルギーに満ちている。

人間の小さな間違いくらい、神の愛はこだわっていませんよ。だが、人間はこだわって神の前に出るもんだから、自分はダメだと胸を叩いているばかりだから、神様は施しようがない。そんな泣いて泣いている者に。だがそれにも気づかずに、ただ祈ってくるから、時々私はやかましく叱るんです。君は今までの状態を、まだどれだけ続けたって同じだ。そんな貧しい、そんな卑しい汚い心は捨てなさいと言っているのに。それは、人を咎めているんではない。そんな繰り返しをどれだけしたって、天には叶わないんだ。だから神の御前に出るんなら、出るように。本当に間違ったことをしたんだったら「神様ごめんなさい」と御前に出ればいいんだ。神様赦してくださるんだから。しかし、信者だから弱みを見せないと言って頑張ってる人も、これもよくない。ありのままで、なんで神の前に出ない?人を見てるからそんなことになる。神だけ見ていればそんなことにならない。見える所の現象面が何であれ、天だけを見ておったら、そんなことにはならんはずだ。天だけを見とったらどっちに転んでもいい。〜以上。1966.6.5講義より

小さな失敗をくよくよしている者に、「神の光のさす世界に入ったら、そんなことはもう間違いでも失敗でもみんなぬぐって止まんようなエネルギーに満ちている。人間の小さな間違いくらい、神の愛はこだわっていません」〜天を垣間見た師の体験から、神の愛の大きさを語っていました。最後の「天だけを見とったらどっちに転んでもいい」とは、まさにこの世の旅路を渡るための指針ですね!感謝です!

f:id:AdonaiQuoVadis:20170811232700j:plain