神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

レーマを読み解く6 ~心の目で天国を見る方法

 聖書の中には、難解な個所がいくつかあります。しかしこの固い食物も、主にたずねながら読めばよくわかるものです。

 創世記1:6の「水の中に大空あれ。そして水と水とを分けよ。」(原文校訂口語訳)とは、何なのでしょう。実際は一面水に覆われた地球で水と水の間に空気を作った。水を分解したのです。~つまり中学校でやる水の電気分解です~そして大気ができ、大空が現れた。おおがかりな作業で水蒸気も上がり、上の水は雲(水蒸気)。下の水は海となった。~そんな簡単なことかもしれません。聖霊様がそんなことを教えてくれるのです。神は求めるなら教えてくれる方です。
 聖書の箇所で一番固い食べ物は、マタイの6:22~24だと思っています。黙示録は隠されているので難解ですが、この箇所の「単一の目」については、かなり重要なところです。日本語の聖書は、残念ながらどれもお粗末な訳ばかりで、「目が澄んでいれば」などと書いてあるので「単一の目」といってもわからないでしょう。私の愛用するフランシスコ会の原文校訂口語訳も意訳してありました。最近では回復訳が適訳を出しています。しかし、一般に「単一の目」と言ってもわからないだろうと思います。これを解き明かした方は、私の知る限りの牧師や有名な伝道者にはひとりもいませんでした。それどころか「レーマを読み解く1」で紹介した魚のたとえも知りませんでした。~「魚」については、2013年ころまで、いろいろな教会で聞いて回ったのですが、「恩寵」だとか、よくわからない「魚は魚だ」、という答えを聞くばかりでした。「魚」とは以前ご紹介した通りです。

 このマタイ伝(アラム語を参考)の「単一の目」の箇所をはっきり解いて話されたのは、わが敬愛する師だけでした。マタイ6:22~24が理解できてから、私の霊的体験は一気に数段階上がりました。貴重な体験でした。ヒントは、kjv(キングジェームスヴァージョン)の訳にあります。

 The light of the body is the eye: if therefore thine eye be single,thy whole body shall be full of light. But if thine eye be evil,thy whole body shall be full of darkness. If therefore the light that is in thee be darkness, how great is that darkness. No one can serve two masters: for either he will hate the one, and love the other; or else he will hold to the one, and despise the other. Ye cannot serve God and mammon.(kjvマタイ6:22-24)
 上記を直訳します。「肉体の明かりは目です。もしあなたのひとつの目が単一なら、 あなたの全身は光で満たされるでしょう。しかし、もしあなたのひとつの目が悪に向くなら、あなたの全身に闇が満ちるでしょう。それは、なんと大きな闇か。だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎み、他方を愛するからです。または、一方に親しんで、他方をうとんじるからです。あなたは神とマモン(金銭やこの世の富)とに兼ね仕えることはできません」。
 肉体の目は実際には2つですが、ここで「ひとつの目」と言うのは、心の目を指すものです。それが純粋に単一の方向に向けば、全身に光があふれると言っているのでしょう。その目の方向が、悪に向けば、全身が暗闇に覆われます。ではどこを見れば光が満ちるのでしょうか。それは悪"evil"の反対で、善であり光に満ちている神様の方向です。この箇所は、すぐ前のマタイ6:20-21の「天に宝をたくわえなさい。あなたの宝のあるところには、心もあるからです。」の箇所にも繋がり、金銭や世の財産に心奪われる人間の暗さを示し、そんな朽ちるものではなく「心を天に向けよ」と言っています。そのあとの福音の骨子でもある6:33「まず神の国と神の義を求めなさい」にも繋がります。

 ああ何ということでしょう。心の目を「暗いこの世の悪やこの世の富」に向けるのでなく、「天国」に向かって見開いたなら、窓が開くように「全身に光があふれる」というのです。また、トマスの福音書には、「隠されているものが明らかにされる」と書いてあります。トマスの福音書の箇所は、また記事にします。この箇所は、天国を知り、隠された奥義を垣間見るようにとイエスが勧めているところなのです。
 敬愛する師がたどり着いた「単一の目=身体の光=天国への窓」の解釈です。どうぞ祈りと瞑想の中で、心を天国に向けてください。

《天に至るために》

 師の体験では、深い祈りの中で、眉間にある心の目で天を見ることが鍵のようです。まるで真珠のように輝いた光(天の門)が見えると言っていました。その話を聞いて、私も同じ体験をすることができました。お金持ちやこの世に宝(心)のある方には、針の穴から覗くようにしか見えないかもしれません。祈りの中で、とにかく真珠のような光が見えたら、その光に向かって意識を集中し進むのです。天国へは、真珠門を通り導かれ、それを抜ければ壁はありません。しかし近寄る者が私のように罪深いと、罪を示す悔恨の場面が現れます。それが壁なのかもしれません。それは過去に犯した罪が実際に起きているように見えてくるのです。主の御救いを知らない人たちは、それを見て恥じ入り、天国に近づかず、自分から暗闇に向かうのはこのためです。裁きは自分の心がするのです。悔い改めが必要なのは、このゆえです。イエスを裏切ったユダが自死したように、自分の心が自分を裁くのです(ヨハネ3:19)。ユダと同じようにイエスを裏切って逃げたペテロは、激しく泣いて悔い改めました。二人を分けたのは、悔い改めたかどうかです。そのスクリーンの前であなたも、自分の罪を認め、主の前に幼子のように近づき、悔い改めるのです。「主よ、私は罪深い者です。ただ主の憐みのゆえに、救い主イエスの十字架の血潮のゆえにお赦しください」と。すると悔恨のスクリーンを通過し、緑の牧場に入ることができるでしょう。

 これは、まだ入り口近くです。その先の主のおられる御座に至る門も探せばすぐにわかるでしょう。そのあとは、あわてないで期間をおいて何度も天へ行ってみて、また主に頼んで、徐々に天の御座近くまで行くことです。門から入ったら、あとはご自分で確認すればいいです。どうぞ祈りの中で天を覗き見てください。できれば神の国の礼拝に参加してきてください。
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」マタイ11:12

f:id:AdonaiQuoVadis:20160618091505j:plain