神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

神の国の中に入れ ~サンダー・シングSS15

エスは、彼が的確に答えたのを見て、彼に言われた、「あなたはの王国から遠くない」。こうしてこれ以上、だれもにあえて問う者はいなかった。マルコ12:34(回復訳)

 東洋の聖フランシスコとよばれたインドの聖人サンダー・シングは、このように語っています。

サンダーの話より〜

この男性は、我らの主のもとに来て、尋ねました。「すべての戒めの中で第一のものは何でしょうか」。これに対して、主は「心を尽くしてあなたの神である主を愛すること」とお答えになりました。男は答えて言いました。「確かにそれは、どのような全焼のいけにえ供物よりも優れています」と。この人は、救い主の言われたことに反対しなかったように見えますが、彼の答えは心からのものではありませんでした。それで、主は「あなたは神の国から遠くない」と言われたのであります。イエス・キリストは人々の罪を咎めるのが常でありましたが、この人には咎めの言葉はありませんでした。「あなたは神の国から遠くない」。この人は優れた学者で、衆人の見守る前でこのような言葉をかけられ、喜んだに違いありません。一見すると、この人は他のパリサイ人や律法学者よりも優れているように見えますが、そうではありません。彼は、自分が「神の国の中にない」ことをむしろ悲しむべきでした。「近くに」いたのであり、「中に」いなかったからです。この人の宗教は頭のそれであり、ハートの宗教ではありませんでした。頭の事柄は喉を降って胸に触れることは滅多にありません。彼が胸の奥底から答えていれば、「あなたは神の国の中にいる」と主が言われたはずです。安全であるためには神の国の近くにではなく、「中に」いなければなりません。神の国から遠い人々は罪の中で死にますが、「神の国の近く」にいる人も同じことです。「近くに」いる人は救いにはなりません。神の国の「中に」いること、神の国を内に持つことが必要なのであります。

我らの主のお語りになった十人の乙女の話を考えてみましょう。五人は婚礼の家の外におり、残りの五人は内にいました。五人の愚かな乙女たちは、長いこと外で戸を叩き続けました。中にいる人が「あなた方は婚礼の家から遠くないので幸いです」と声をかけたとすれば、「近くにいることが何になるでしょうか。私たちは中にいません。一緒に歌うことができません」と彼女たちが答えたことでしょう。神の国の近くにいるだけでは十分では無いのです。………

ノアの時代、人々は大洪水が起こることを信じることができませんでした。罪を悔い改めなければならないと説くノアに向かって、人々は言いました。「彼は正気ではない。すっかり老いぼれて、頭がいかれている」と。他にも、大工たちが笑いました。かなりの数だったと思われますが、彼らは洪水についてノアの話を、信じていませんでした。「大洪水を信じていないと言うのになぜ働くのですか」と一言伝えると、彼らは「賃金のためです」と答えました。彼らは信じてはいませんでした。しかしいざ大洪水が来て、大水を見たときには、恐怖に駆られたに違いありません。山に逃げ、泳いでも、安全な場所はありませんでした。泳げる人は方舟を見て近寄り、戸を叩きました。「戸を開けてください!」。しかし不幸なことに、誰も戸を開けられませんでした。戸を閉じたのは神であり、ノアではなかったからです。ノアが閉じたのであれば開けることもできたでしょう。大工の中には「方舟を建造する助けをしたのです。私は中に入る権利があります!」と叫んだ者もいたはずです。ノアはこう答えたことでしょう。「神の方舟を作る手助けをしたときに、あなたは信じてはいませんでした。もはや遅すぎます」。人々と方舟の内側との距離は、戸の厚さしかありませんでした。そのように、近くにいると言うだけでは、何の役にも立たないのです。昔の律法学者は、「あなたは遠くない」とキリストが言われたときの心を理解していれば、悲しんだに違いありません。自分が危険な立場にいることを悟ったはずです。

今日、キリスト教国と称する国の教会には、キリストとその教えを讃え、神の国の近くにいる特権を持っている人々が多くいます。彼らは五人の愚かな娘のように泣いて歯噛みをすることでしょう。近くにいると言うだけで、神の王国の中にいなかったからです。よくよく注意しなければなりません。私たちは神の国に入らなければならないのです。どうすれば神の国に入ることができるでしょうか。祈りをおいて他には道がありません。祈りは天への鍵であります。祈れば天は私たちに向かって開かれます。祈れば私たちは主と共にあり、あらゆる種類の危険から守られます。私たちは主の中におり、主は私たちの中にいます。私たちは主を見、人生の中に主が臨在することを実感するでしょう。……… 目には見えずとも、主の臨在を感じることができます。「感じる」とは、活けるキリストの実在を実感し、「今や自分は神の国の中にあり、神の国はわが内にある」と主について証しできる、という意味であります。その時に、私たちは地上天を見るでありましょう。「あなたは遠くない」と言う必要はなくなります。神の国はあなた方の中にあるからです。その時に、私たちを死後天国にいることを望むことだけでなく、「私は今の生において天国にいる。私は主の中にいるからだ」と言えるようになるでしょう。〜以上、1922年3月7日サンダー・シングの講演より

参考:「イエス・キリスト封印の聖書」林陽訳(徳間書店)

1922年に、サンダーは、祈りのなかでご臨在を体験し、神の国の中に住まい、神の国が内にもあることを体験していたのですね。サンダーが警告しているように、私たちのエクレシアは、神の国の近くにあるだけでは不十分です。今必要なのは、エクレシアにキリストを招くことです。ご臨在の中で神の国を体験できるエクレシアとすべきです。その鍵について、サンダーは、「祈りは天への鍵であります。祈れば天は私たちに向かって開かれます。祈れば私たちは主と共にあり、あらゆる種類の危険から守られます。私たちは主の中におり、主は私たちの中にいます。」と語っていたのです。この祈りとは、瞑想に近い異言の祈りです。その中で神の国を幻視し、身体の周囲に臨在を体感できるまでに神の国を開き礼拝することだと感じています。サンダーは、頭でなく胸の奥底からハートで答えることを要求しています。あなたは、ハートで答えられますか。

私は、幸いにも神の国の中で礼拝できるエクレシアを、複数見つけました。まだたくさんあると思います。ただ、本望は、強いご臨在(地上天)の中に日曜日だけでなく毎日留まっていたいのです。

ケルティックウーマンもいいですね。でもエクレシア(教会)の臨在溢れる讃美の方が感動します。

f:id:AdonaiQuoVadis:20170915015800j:image