神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

❤️栄化への実践8 〜カータル・シング の殉教 SS27

インドの聖者サンダー・シング  は、チベットで殉教したキリストの伝道師カータル・シング  について講演で語っています。その話から、キリストのために苦しむことの喜びを見いだすことができます。その歓喜は、カータル・シング  のような多くの殉教者に見られる、栄化の特権でもあります。私たちも、サンダーの話のように、地上天国に生きる幸いを体験できたら何と素晴らしいことでしょう。

〜サンダー・シング  の講演録より〜

    あなた方の中には、チベットの殉教者、カータル・シング  についてお聞きになった方もいると思います。福音伝道に行った時、彼は「黙りなさい。キリストの話は聞きたくない」と人々に言われました。彼は、貴族階級の息子で、チベットでの伝道のために全てを捨て去った人です。救いを与え霊魂を満たせるのは、富ではなくキリストであることを、身をもって経験した人です。私が伝道のためにチベットに入ったときに、この人の殉教の顛末を聞かされました。

    彼は丘の上に引き立てられ、濡れたヤクの皮で縛り上げられ、三日間、日にさらされました。カータル・シング  の殉教を語る男の顔が喜びに光っているのを見て、私は驚きました。「悲しい話をしているのに、あなたは嬉しそうに見えます」と声をかけると、相手は次のように答えました。「悲しくはありません。私は彼の死についてお話ししているが、私が見たのは死ではなく、素晴らしい生だったのですから。彼は、まる三日間、皮の中で締めつけられ、飢えと渇きに苦しんでから、『気分はどうか』と聞かれ、『キリストのためにこのような特権を与えられたことを、神に感謝する』と答えたのです。しかし、彼は苦しんだのではない、大いなる歓喜に浸っていたのです。私は、そのことを人にわからせたい。そうすれば、キリストとともに生きることが地上天国であることに同意するはずです。

人々は鉄の爪で彼の腹を引き裂き、そこから血が溢れ出しましたが、それでも彼は喜びに浸っていました。彼らが去ってから、カータルは言いました。『自分が捨てられたが、キリストは自分を見捨てていない。主は私と共にいるばかりか、私の中にいる。この皮の中は天国だ。このような特権をいただいたことを神に感謝する』」。

    いったい、苦しみの中でこれほどの喜びを得られるのであれば、迫害の全くない天国では、どれほど大きな喜びが待っていることでしょう。問題は、今その喜びを味わうことなしに、死後味わうことはありえないということです。私たちは神の中に生きている。しかし、神が私たちの中に生きてはいないのです。神は空気のようにあまねく存在されるので、私たちは神の中に生きています。しかし、心の中にいつも臨在を実感していなければ、主は私たちの中にはいません。

    ヒマラヤ山中を旅していたとき、私は小川のそばに腰を下ろして、清流の中から硬い丸い石を取り出して割ってみました。すると、中央は乾ききっていました。石は、長い間清流の中にあったにもかかわらず、濡れているのは外側だけで、水は石の中にはありませんでした。この石のようなクリスチャンが多くいます。彼らは教会の中にいるが、神は彼らの中にいません。神に責めはない、石のように硬化した心に責めはあるのです。石のように心が硬くなれば、何一つ良きものを結果とすることはありません。主が私たちの中にあり、私たちも主の中にある時に、まことの喜びはあります。

    それは、水の中にあり、水もその中にある海綿のようです。二つは別々のものでありながら一つです。「われらは神、神はわれら」ではありません。「神はわれらの内にあり、われらは神の内にある」のです。

***中略***

    自力で消し去ることができない罪の汚れも、聖霊による火の洗礼を受けるや拭い去られるのです。そのときに、私たちは神の国が内にあることを知ります。人は、神の国は天の彼方、どこか遠いところにあると考えますが、キリストは「神の国はあなた方の中にある」と言われました。体験がなかった頃の私は、それを理解することができませんでした。しかし、体験したときに、神の国は内にあることを理解したのです。

    先日、私(サンダー)はチベットのある寒村で伝道していた時の経験をお話ししました。人々は言いました。「この国に入ってはならないと再三命じたにもかかわらず、あなたは何度も入ってくる。今回は、生かしては帰さない」。ラマは言いました。「殺しても無理だ。カータル・シング  の死は、逆に大きな影響を人々に与えてしまった。森の中に縛っておけ」。

そこで、彼らは、私を深い森の中に連行し、鉄製の重い鎖で木に縛りつけました。唯一の所持品である毛布と聖書も彼らに奪われました。鎖に錠がかけられたため、私は身動きひとつ出来ませんでした。その晩は寒さが厳しく、非常に辛い経験となりました。助けてくれる人は誰もいません。

    しかし、私には、キリストがいてくださるだけで充分でした。寒さの為、夜は一睡もできず、朝には体が冷えきって、死を予感しました。しかし、私はいい知れね喜びと平和を感じました。私にとってそれは地上天国でした。キリストが生けるキリストでなければ、主が神でなくただの人であれば、苦しみの最中にこのような平和と歓喜を与えることができなかったでしょう。

   平和と聖霊の火をいただいた瞬間に、私は苦しみと寒さを忘れ、2、3分まどろみました。それから物音がして、目を覚ましました。木の上には熟した実がなっていたのですが、その一つが音を立てて落ちてきたのです。気が付くと鉄の鎖は落ちて、私は自由の身になっていました。あたりには、人ひとり見えません。

   私は、目の前に落ちた果実を食べると、ふたたび村に行き伝道を始めました。人々は、大変驚きました。死んだと思った男は生きていたのです。彼らは錠を調べに行きましたが、鎖は錠にかかったままでした。しかも、それを開ける唯一の鍵はラマが持っていたのです。

   ここには、二つの奇跡があります。迫害の最中に味わったたとえようのない平和、そして私が自由の身になったという事実です。それは、生けるキリストの力によるものです。主は、常に信じる者と共におられるのです。

〜「イエス・キリスト封印の聖書」より〜 

    二人がチベット宣教の中で受けた迫害。しかし、サンダーが語ったのは、迫害の最中に味わった たとえようのない平和と歓喜の経験だったのです。それは、使徒行伝で使徒たちが牢に捕らえられたときのような、キリストの扶助と奇跡の体験でした。サンダーの話から、地上天国で生きる秘訣が見えてきます。神の国は、あなた方のただ中にあり!

また、ローマ書8章は、パウロの経験でもあり、ローマ書の中心でもあります。この章に二人の経験を裏付ける句があります。この句にアァメンと言えるときに、キリストと共にさらに高き山へと導かれるのでしょう。

ローマ‬ ‭8:12-14

12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。

13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます

14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 ‭(新共同訳‬‬)

12ですから、兄弟たちよ、わたしたちは負債者ではありますが、それは、肉にしたがって生きるという、肉に対するものではありません.
13なぜなら、もし肉にしたがって生きるなら、あなたがたは死ななければならないからです.しかし、その霊によって体の行ないを死に渡すなら、あなたがたは生きます

14なぜなら、神の霊に導かれている者はみな、神の子たちであるからです。(回復訳)

    カータルは殉教し、サンダーは解放されました。しかし、二人には、どちらでも構わないのです。

ローマ14:8

8わたしたちは生きるにしても、主に生きるのであり、死ぬにしても、主に死ぬのです。こういうわけで、わたしたちは生きるにしても死ぬにしても、主のものです。(回復訳)

ピリピ1:20-21

20そこで、わたしの切なる期待と希望は、わたしがどんな事にも恥じることなく、かえっていつものように、あらゆる事で大胆になって、生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです。
21なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益であるからです。(回復訳)

迫害の中で歓喜を味わうなんて、クレージーだとお思いでしょう。しかし、以前に実践2で書いた長尾先生や横塚先生の活動と共通して、苦痛を受けることは、栄化へ近づくことができるという喜びにつながり、内なる人=キリストが現れるチャンスなのです。

ピリピ3:10-11

3:10キリストと彼の復活の力と彼の苦難の交わりとを知り、彼の死に同形化されて、
3:11何とかして、死人の中からの格別な復活に到達するためです。(回復訳)

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2019/04/28/235752

今も神の国の福音のために迫害の中にいる兄弟姉妹がいます。お祈りください。

f:id:AdonaiQuoVadis:20190516005608j:image

2018年12月9日に拘束された中国秋雨聖約教会  王怡 牧師のモットー

(英語の訳)

三つの行動のために生きる

1.祈りのために跪(ひざまづ)き

2.教えのために立ち

3.福音宣教のために走る

(中国語の訳)

至于我,活着是为三件事:跪着祷告,站着讲道,跑着传福音。为此,主给我三个锦囊:随时搬家,随时坐牢,随时回天家。

私にとって、生きるのは三つの事のため:

祈りのために跪き、説教のために立ち続け、福音宣教のために走り続ける。

このために、主は三つの錦の袋を私にくれた:

いつでも家を出、いつでも牢に座り、いつでも天へ帰る。