神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

勝ち得て余りあり ~ローマ書8章

ハレルヤ!われらには、執り成していてくださる方がいる。

ローマ8:31ー34・37

31それでは、これらの事柄に対して、わたしたちは何と言いましょうか? ❶もしがわたしたちの味方であるなら、❷だれがわたしたちに敵対し得るでしょうか?

32❸ご自身御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべてのために御子を渡されたが、どうしてと共に、万物を無代価でわたしたちに賜わらないことがあるでしょうか?  

33❹が選ばれた者たちを、だれが訴えるのですか? ❺わたしたちを義とされるのです。

34❻だれが罪に定めるのですか? ❼キリスト・イエスは死んで、さらに復活させられ、の右で、わたしたちのためにとりなしておられます。

37しかし、❽これらすべての事柄において、わたしたちを愛してくださったを通して、わたしたちは勝ち得て余りがあります。(回復訳)

以上を 箇条書きでまとめると、

❶神がわたしたちの味方。

❷だれもわたしたちに敵対しない。
❸ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちのために渡され、万物を無代価でわたしたちに賜わる。

❹神が選ばれた者たちを、訴える者はない。
❺神がわたしたちを義とされる。
❻だれも罪に定めない。

❼キリスト・イエスは、神の右で、わたしたちのためにとりなしておられる
❽すべての事柄で、わたしたちを愛してくださった方を通して、わたしたちは勝ち得て余りがある。

ローマ書で、パウロがわれわれに語ってくれているようです。

悔い改めばかりして、いつも自分を見て罪に定めている信仰の薄い日本のクリスチャン、どっちを見て生きているのですか。十字架こそが正解です。早くこの狭き門を通過してしまいましょう。(悔い改めメタノイア⇒義化⇒✟聖化⇒栄化)

信仰において全き者になりとうございます!

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どっちを見て生きているのか?

✟偽りに満ちたこの世からの解放 ~十字架~

あぁ、なんと慕わしい十字架。弟子たちが、みな進んだ道。世人が涙を流す別離ではない。悲しみではない。墓場に向かう虚しさでもない。

全く違う。

十字架は、歓喜そのものだ。愛する方のために生命をかける決意。十字架は、第一と第二の戒めの完成そのものだ。愛の交叉(CROSS)そのものに見える。世の宗教や世人には、決してわからないだろう。十字架を敗北や悲しい死ととらえる者に、この狭き門の救いは見いだせない。

マタイ22:36-40より     

先生、律法の中でどれが大切な戒めですか?」

エスは彼に言われた、「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたのであるを愛しなさい』。これが大切な第一の戒めである。第二もそれと同じである.『自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい』。これら二つの戒めに、すべての律法と預言者がかかっている」。(回復訳)

「On these two commandments hang all the law and the prophets.」
‭‭Matthew‬ ‭22:40‬ ‭KJV‬

二つの戒めに、すべての律法と預言者が架かっているのだ。

 

あぁ、慕わしい十字架よ。偽りに満ちたこの世からの解放。縦木は、心、魂、思いを尽くして神である主を愛する愛。 横木は、自分と同じように隣人を愛する愛。そのCROSSが十字架だ。天を見上げては、父との関係は、決して絶たれたくはないと心痛める。しかし、左右を見れば、罪の中で彷徨い死に向かう世人が見える。彼らの救いのために、父との関係が切れてしまっても自らを燔祭として献げなければならない。この縦方向と横方向の愛のジレンマに張り裂けてしまった心臓。それが、究極の十字架の愛だ。十字架の縦方向と横方向の愛のジレンマに引き裂かれてしまった救い主の心臓。この消え去るべき世(三次元)を超越した愛の勝利。此処にすべての律法と預言者が架かっている!十字架がわからないこの世(三次元)に生きる者に、通ることはできない門。クリスチャンも仏教徒イスラム教徒も、十字架のイエスを、悲しい死や敗北と考える者には、この狭き門は見出せない。十字架のイエスは、至上の愛、歓喜の門なのだ。十字架は、決して拝むべき偶像ではない。私の罪の贖いのために血を流される近しい友なる主を、涙の中で仰ぎ見るのだ。その友の愛に、自分も命をもって応えるのだ。愛のCROSS。高次元の昇華された精神の狭き門だ。イエスこそ愛の門だ。この十字架のイエスという門を通って天を垣間見、天父にまみえるのだ。

わたしは門である.だれでもわたしを通って入る者は救われ、また入ったり出たりして、牧場を見いだす。」(ヨハネ10:9)回復訳

【殉教に突き進んだ使徒たち】
ペテロの弟アンデレ:ギリシャではりつけの刑で殉教

バルトロマイ:アルメニアで鞭打ちにより殉教
アルパヨの子、小ヤコブ:イスラエルの神殿で石打の刑で殉教
ゼベダイの子、大ヤコブ:ヘロデにより斬首され殉教
ヨハネ:パトモス島へ幽閉、釈放後老齢で生涯を終える

マタイ:ヒエラポリスで刀で斬られ殉教
ペテロ:ローマで逆さはりつけの刑で殉教
ピリポ:はりつけの刑で殉教
熱心党のシモン:ギリシャで鋸で2つに斬られ殉教

タダイ:アルメニアで斧で撃たれ殉教
トマス:南インドで槍で刺され殉教

イスカリオテのユダ:イエスを裏切り自殺
マッテヤ:ユダの代わりに使徒となったが石打ちの刑の後、斬首され殉教

パウロ:あとから使徒に数えられたが、ローマで斬首され殉教

*以上、聖書記事と伝承による

 

イスカリオテのユダ以外、弟子たちは、なぜすすんで殉教して行ったのか?

 アンデレの殉教から、学びましょう。

 アンデレは、7人の兵士にひどくむち打たれたあと、彼らはアンデレの苦しみを長引かせるためにひもで彼の体を十字架にくくりつけました。彼が十字架に引かれて行ったとき、彼は次のようなことばをもって十字架にあいさつしたと彼の弟子たちは報告しています。「私は、この至福の時を長いこと待ち望んできた。十字架は、キリストのからだがかけられたので、神聖なものとなったのだ。」アンデレは、迫害する人々に死ぬまでの二日間、説教し続けました。アンデレが、十字架上で二日間も語り続けたわけは、彼が聖霊に満たされていたからです。死など恐れない、やがて来る天の栄光を垣間見て、十字架を至福と言えるほどの満たし。天国人の生きざまが見えます。

パウロはガラテヤ書でこう言っています。

ガラテヤ6:14

「しかし、わたしには、わたしたちのイエス・キリストの十字架以外に、誇るようなことが断じてあってはなりません.そのを通して、この世はわたしに対して十字架につけられ、わたしもこの世に対して十字架につけられてしまったのです。」(回復訳)

この「誇る」という言葉は、「喜ぶ」とか「大喜びする」と訳すことができるそうです。

「わたしには、わたしたちのイエス・キリストの十字架以外に、喜ぶことが断じてあってはなりません.そのを通して、この世はわたしに対して十字架につけられ、わたしもこの世に対して十字架につけられてしまったのです。」

十字架は、喜びです。大きな喜びです。この肉の死と偽りが支配する厭な世から、解放される愛の門です。十字架は、通過すべき門です。

そして多くの聖徒たちは、喜びをもって進んで十字架へ向かったのです。彼らはキリストの死と同形化され、栄光に満ちた天国の永遠の命を賜ったのです。ハレルヤ!

ピリピ3:10-11

キリストの復活の力との苦難の交わりとを知り、の死に同形化されて、何とかして、死人の中からの格別な復活に到達するためです。」

ピリピ3:21

キリストは、万物を彼ご自身服従させることができるの活動によって、わたしたちの卑しい体をも変貌させ、それをの栄光の体に同形化してくださいます。」(回復訳)

私も、キリストに倣い、多くの聖徒のように、聖霊に満たされて天を待ち望む者になりたい。バール シェム トブのように、死んでからも多くの人々に現れるような、天地や時間を超越した栄光体に変えられたいと願うものです。

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 ~But God forbid that I should glory, save in the cross of our Lord Jesus Christ, by whom the world is crucified unto me, and I unto the world.~

Oh, what a beloved cross. The way which every saints went  through . It is not the separation that people shed tears. It is not sorrow. It is not emptiness in the graveyard.
Totally different.
The cross is delight itself. It's the perfect "Love". The determination to give up your life because of "Love".
Matthew22:36-40
~Master, which is the great commandment in the law?
Jesus said unto him, Thou shalt love the Lord thy God with all thy heart, and with all thy soul, and with all thy mind.
This is the first and great commandment.And the second is like unto it, Thou shalt love thy neighbour as thyself.On these two commandments "hang" all the law and the prophets.~

On the CROSS  "hangs" all the law and the prophets.
 I think CROSS  itself is the cross of two commandments. The vertical pillar
is the Love towards the Lord. The horizontal bar is the Love for your  neighbours.
Most people never know this. The person who regards the cross as defeat and death cannot find this narrow gate.

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2017/04/30/000249

 

トマスの福音書21 ~いのちの木

継続してトマスの福音書を訳し、解説しています。

21節

* Said-JS21 this: A-blessed-one is-he who-came-into-being from-the-beginning, before-he-came-to-be. > If-you(pl)-should-come-to-be to -me disci-ples, &-you(pl)-listen to-my-words, these-sto-nes will-become-servants to -you(pl), > (for) have-you(pl),(---), there five trees in-para-dise which()move not summer (and?) winter, and do -not-their-leaves fall down. > He-who-will-know-them, he-will-take-taste not of-death.

 

21直訳 

エスはこう言った。❶彼が存在した前に、始まりからずっと存在していた者は、幸いである。もし、あなたがたがわたしの弟子になるなら、またあなたがたはわたしの言葉を聞くなら、❷これらの石はあなたがたに仕えるものとなるだろう。というのはあなたがたは(原文欠落)、❸パラダイスには、夏も冬も動くことのない❹五本の木がある。そして木の葉は落ちない。彼はそれらの木を知るだろう、彼は❺死を味わうことがない。

 

この節は、19節で弟子たちがイエスに、「我々の最期を話してくれ」と尋ねたことに対する回答であり、20節の続きであります。

20節

「イエスはこう言った。あなたたちは、まず始まりを解き明かしたことがあるか。あなたたちが終わりを探しているように。というのは、始まりのあるところに、終わりも来るからだ。祝福された者、彼は自分の足で始めに立つだろう。そして彼は最期を知るだろう。そして彼は死を味わわないだろう。」

 

❶彼が存在した前に、始まりからずっと存在していた者は、幸いであるとは、イエスのことです。主イエスは、紀元元年に肉体をもって生まれましたが、それ以前に神の子として創世(始まり)に立ち会っていたと言われます。ですから、人の子は祝福された者だと言っています。また、その弟子も祝福されるのです。

 

難解な21節のキーワードは、「❷これらの石」、「❸パラダイス」の「❹5本の木」、❺木を知る者は死を味わうことがない=「❺いのちの木」と言ってもよいでしょう。

まず「❷これらの石」は、マタイ24章で神殿の最期について語ったところに出てきます。この箇所は、弟子たちが自分たちの最期について尋ねた箇所とも一致します。

 

マタイ24:2しかし、エスは彼らに答えて言われた、「あなたがたは、❷これらすべてのものを見ないか? まことに、わたしはあなたがたに言う.❷一つの石も崩されずに、他の石の上に残ることは決してない」。

 24:3 イエスがオリブ山に座っておられた時、弟子たちはひそかに彼の所に来て言った、「わたしたちにお話しください.いつ、これらの事があるのですか? また、あなたが来られることのしるしと、この時代の満了のしるしは何ですか?」

 

ここでの「❷これらの石」とは、エルサレム神殿を形づくる石です。しかし、イエスの預言通り、紀元70年にはローマ兵によって崩され、金の被膜を溶かすため焼かれた神殿の石です。「❷これらの石はあなたがたに仕えるものとなるだろう」とは、以前書きました、神殿の聖なる「❷石」=「神の臨在」があなたがたに仕えるものになるだろうと言っているのでしょうか。これは、体験した者ならわかるはずです。祈りの中で強いご臨在に入ることが可能になるのです。説明しづらいのですが、ヤコブが天の梯子を見たように、天に出入りする梯子やヤコブが言った天の「神の家」(ベテル)、「天の門」を指すのかもしれません。「❷石」が「臨在」に関係することについて詳しくは、創世記28章から、以下に説明してあります。

💛レーマを読み解く5 ~家造りの捨てた石とは - 神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

次に「❸パラダイス」の「❺いのちの木」が創世記にあることは、皆さん気が付くでしょう。しかし、同じような季節に関係なく枯れることのない木は、黙示録にも出てくるのです。「❺いのちの木」は、聖書の最初(創世記)と最後(黙示録)に出てくるのです。

黙示録21:10~天から来たエルサレムに「いのちの木」が出てきます。

「21:10そして彼はわたしを霊の中で、大きな高い山へ連れて行き、聖なる都エルサレムが天から出てから下って来るのをわたしに見せたが、・・・・

22:1また御使いは、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。それは小羊の御座から、大通りの中央を流れていた。22:2その川のこちら側にも向こう側にも命の木があって、十二の実を結び、その実は毎月みのりその木の葉は諸国民のいやしのためにある。」

また、エゼキエル47:12には、同じような箇所があります。

「47:12川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。

 

パラダイスの木とは、新しいエルシャライムに植わっている、夏も冬も枯れることのない、十二の実を毎月結ぶ「❺いのちの木」です。他の箇所で、イエスご自身は、ご自分を「❻いのちのパン」と言っています。永遠の命を受けることのできる「木」と「パン」。同じものを指しているのでしょうか。木は❸五本あるようです。5千人の給食では、❻パンは五つあったのです。それぞれの特徴を考えてみましょう。

 

❺「いのちの木」:1.新しいエルシャライムのいのちの川の両岸にある。

         2.夏も冬も動かない常緑樹

         3.12の実を毎月つける

         4.木の葉は諸国民の癒す薬になる. 

 ❻「いのちのパン」1.のパンとは、天から下って来て、世に命を与える

         2.わたしが命のパンである.わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしの中へと信じる者はいつまでも決して渇くことはない

         3.だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きる

         4.わたしが与えるパンはわたしの肉であり、世の命のために与えものである (ヨハネ6:33-51)

 

21節を意訳します。

21意訳

エスはこう言った。生まれる前より、創世の始まりからずっと存在していた人の子(イエス)は祝されている。もし、あなたがたがわたしの弟子になり、あなたがたがわたしの言葉を聞くなら、これらの神殿の石は、あなたがたに仕えるものとなるだろう。すなわち、神のご臨在があなたがたに現れるようになる。というのはあなたがたは(原文欠落)、パラダイスには、夏も冬も枯れることのない五本の木々が植わっている。そしてそれらの木の葉は落ちない。それらの木を知る者は、死を味わうことがない。

 

※難解ですが、何となくイメージできます。パラダイスには季節があり、パラダイスの木は、葡萄の木だと説明する方がいます。しかし、私的な思い込みかもしれませんが、パラダイスの木は、枇杷のような冬でも葉を茂らせた常葉樹だと思っています。事実、枇杷の葉療法は有名です。枇杷の葉に癒しの力があるのは、昔から知られています。実家には葡萄の木も枇杷の木もありますが、葡萄の葉は木枯らしの吹く前にはすっかり枯れます。しかし、枇杷は冬の今も葉を茂らせているのです。

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