神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

ラケルの忠誠 〜偶像を破棄せよ

ヤコブの妻ラケル嫁ぐ(訂正:故郷を出る)際、父ラバンの大切にした偶像テラピムを家から持ち出し、らくだのくらの下に入れ、その上にすわっていました~その後聖書の記事にはテラピムは出てきません。しかし、私も家族から偶像を取り除きたいと思って位牌を焼き捨てたことがあるので、共感するのですが、ラケルは父ラバンの偶像を捨てるために持ち出したと感じます。偶像は人を束縛し、最終的に災いをもたらします。仏寺の僧侶は、朝から晩まで偶像に束縛された生き方をしています。あそこのお地蔵さんに花を生けて、あの墓に蘇東坡を立て、そこら中にある石像にお供え物をして、香を焚き、神仏習合から神道の種々の偶像にも束縛されて毎日のお勤めに一日を過ごしている。人間として生きる自由を制限され、毎日供養供養とくよくよと死者のことを考え、心も縛られ、まさに呪縛である。ラケルは父を愛しているから、最後に偶像を奪ったのだと感じます。偶像が欲しかったわけではありません。ラケルは、その偶像を何とも思わないから、尻の下に隠して座っていたのです。父をその罪から救うために、偶像を持ち出して捨てたのです。イスラエルの花嫁として、この時ラケルヤコブの神の教えに忠実であったと考えます。

「しかし、ラケルはすでにテラピムを取って、らくだのくらの下に入れ、その上にすわっていたので、ラバンは、くまなく天幕の中を捜したが、見つからなかった。 その時ラケルは父に言った、「わたしは女の常のことがあって、あなたの前に立ち上がることができません。わが主よ、どうかお怒りにならぬよう」。彼は捜したがテラピムは見つからなかった。」
‭‭創世記‬ ‭31:34-35(口語訳)

アブラハムからの祝福が、ヤコブにも及んでいたことがわかります。それを、ラケルがさらに増し加えたのです。実家の偶像崇拝をやめさせるために、ラケルは尻の下にテラピムを隠し、持ち出し、捨てたのです。ラケルの行為がヤコブの祝福を増し加えました。ヤコブは、イスラエル12支族の祖となりその子孫は、今に至るまで栄えているのです。

 

レーマを読み解く19 〜ひとつの目で、父の御顔を仰ぐ

マタイ18章より
18:9 もし、あなたの目(複数)があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい.❶両目を持ったまま火のゲヘナに投げ込まれるよりは、❷片目で命に入るほうがよい。
18:10 これらの小さい者(おさな子)の一人をもさげすむことがないように、注意しなさい.わたしはあなたがたに言っておく.天にいる彼らの❸御使いたちは、天におられるわたしのの御顔を、❹いつも見ているのである。マタイ18:9-10(回復訳)

以上は、おさな子を示して、「小さい子供のようにならなければ、決して天の王国に入ることはない。」と言った有名な箇所の続きです。その中で、「目(複数)があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい.❶両目を持ったまま火のゲヘナに投げ込まれるよりは、❷片目で命に入るほうがよい。」と言っています。我々の目は、この世のものにとらわれ、それを見つめます。たとえば、宝石店のジュエリーを見ると、輝く宝石に魅了される女性は多いはずです。エバが善悪を知る実を見て、魅了されたように、我々の目が見つめる対象に魅了されます。天国を見るのであれば、天国のすばらしさに魅了されることでしょう。しかし、この世の物を見つめて、それに魅了されるなら、天国は見えなくなります。我々の心の目を天に向けるべきです。ここでは、この世のものを見つめる❶両目でなく、❷ひとつの目で天国を見つめ、天国へ入れと言っているのです。
同じ個所をマルコ10章では、こう書いてあります。
10:14しかし、イエスはそれを見て、憤って彼らに言われた、「小さい子供たちをわたしに来させなさい。彼らをとどめてはならない.の王国は、このような人たちのものだからである。
10:15 まことに、わたしはあなたがたに言う.だれでも小さい子供のように❺の王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはない」。マルコ10:14-15(回復訳)
ここで子供のように❺神の王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはないと言っています。「子供のように神の王国を受け入れる」。このために必要なのは❷片目=ひとつの目です。また、「天にいる彼ら(おさな子たち)の❸御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔を、❹いつも見ているのである。」と言っています。神の王国を受け入れるおさな子には、天に❸御使いがついています。天に入る者には、御使いが付くのです。そして、御使いは、父の御顔を❹いつも見ているのです。われわれも、ひとつの目で天に入り、父の御顔をいつも見る者になりとうございます。

💖武器ではなく命の水を ~医師・中村哲とアフガニスタン(ETV)

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神は、どちらを支持されるだろう?

思想の違いや一部のテロリストを理由に貧しい国を空爆することか、それとも彼らの命を救うことか?

マタイ5章より

5:43『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われたことを、あなたがたは聞いている。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う.あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい.
5:45 それは、あなたがたが、天におられるあなたがたの父の子となるためである.なぜなら父は、悪しき者にも善なる者にも彼の太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださるからである。マタイ5:43-45(回復訳)

 私は、中村医師と同じ日本人であることを誇りに思う。そして、圧倒的な武器で人を殺す欧米のキリスト教国と同じに見られることを恥じる。

主イエスが、今の時代に生きておられたら、アフガニスタンへ行って、彼らのためにもご自身の命をお捨てになっただろう。 イスラム教徒は、主イエス預言者として尊崇しています。アフガニスタン人は、欧米人よりもずっと信仰深く忍耐強い民族であることがわかります。

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マルワリード用水路 参考地図

レーマを読み解く18 小さい子供のようになるとは...

小さい子供のようにならなければ、天の王国に入ることができません。

マタイ18章より

18:1その時、弟子たちはイエスの所に来て言った、「それでは、天の王国ではだれが一番偉いのですか?」

18:2 そこで、イエスは一人の❶小さい子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて
18:3 言われた、「まことに、わたしはあなたがたに言う.あなたがたが❷転機して❶小さい子供のようにならなければ、❸決して天の王国に入ることはない。
18:4 だから、この小さい子供のように❹へりくだる者が、❺天の王国で一番偉いのである。マタイ18:1-4(回復訳)

 

弟子たちの「天国では誰が一番偉いのですか」と言う質問に対し、イエスは、小さな子供を示して、あなた方が❶転機して❷小さい子のようにならなければ、❸決して天国に入ることできないと言われました。この「❶転機して」という言葉は、英語では”convert”という言葉が使われています。つまり、敬愛する師が使っていたコンバージョンの動詞形です。「方向転換」とでもいう意味です。それもこのコンバートをしなければ、❸決して天国には入れないと言っています。今までの生き方を回心し、方向転換し、小さい子供のようになるのでなければ、❸決してと言っていますが、天国には入れないのです。

それでは❶小さい子供のようになるとは、いったいどのようなことを指しているのでしょうか。

 「この小さい子供のように❹へりくだる者が、❺天の王国で一番偉いのである。」とあります。「へりくだる」とはどういうことでしょうか?大人のように、自分を卑下し、腰の低い生き方をすることでしょうか?

子供は、そんなことをしません。子供の特性として、自分の心に素直であることがわかります。心の思いをそのまま表現し、人から言われたことに素直に従う傾向があります。この「❹へりくだり」とは、イエスの言葉に従い、ひとつのことに対して、集中し、二心ではなく素直に信じることを指していると思います。

また、マルコ10章では、こうあります。

10:14しかし、イエスはそれを見て、憤って彼らに言われた、「❶小さい子供たちを❻わたしに来させなさい。彼らをとどめてはならない.の王国は、このような人たちのものだからである。
10:15 まことに、わたしはあなたがたに言う.だれでも❼小さい子供のようにの王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはない」。マルコ10:14-15(回復訳)

ここでは、❼子供のように神の王国を受け入れない者は、決してその中に入ることはないと言っています。「子供のように神の王国を受け入れる」。これが「❹へりくだる」の意味であると考えられます。

実は、神の王国に出入りする者には、小さい子供が多いのです。

子供のように、辛いことがあれば、すぐにお父さんのところに泣きながら駆け寄っていく。問題が解決しなければ父を探し、いつまでも泣き叫び頼むはずです。また、嬉しいことがあれば、お父さんのところに笑顔で駆け寄っていく。何もなくても、愛するお父さんのところに、いつも行きたいと願うはずです。「❶小さい子供たちを❻わたしに来させなさい。彼らをとどめてはならない.神の王国は、このような人たちのものだからである」と主は言われるのです。神の王国には、子供のように素直に神様のみ前近くに生きる者が入れるのですね。

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