神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

敬愛する師6  ~神秘な喜び FB

師の話より:「神秘な経験の一環せる大きな特徴は、自分の肉体、理性、感覚の全てが死んだ休止状態になるということです。それは休止ではなく、大死一番の精神的大活現なのです。パウロは、ダマスコ途上において、キリストの霊に打たれました時に、息絶えて、三日間は目も見えず、飯も食べられず、無意識のような状態が続きました。まぁ、私が度々、霊界に移されたときの体験を思っても、まるで人間のエネルギーを霊に転換して使うかのように、手足が冷くなり、肺もほとんど活動しているかどうかわからない、肉体はほとんど死んだような状態になり、もう自分を失うほど無我になったりします。神の意識はワッと働く場合、地上の人間の感覚や意識など、もう無用だから眠ったような、死んだようになるのでしょう。しかし、その時、心臓だけが高鳴っています。ハートは愛の象徴です。他の感覚がしっかり静まったような状況になる時に、何が生きているかと言うと神の愛だけです。神の愛に対して心臓だけが高鳴っているのです。
 霊的極地に達しましたときには、「神様!あゝ、もうこれ以上恵んでくださったら、心臓がはち切れそうです!」と叫びたいように、狂おしいほど喜ばしい法悦状態に入るものです。キリストの霊が圧倒してくるために、もうたまらなくなって、自分に死んで無我にならないでは、苦しくていられぬようになる。これが十字架の喜びです。「どくろ、識(しき)つきて、喜びなんぞ立せん」(へきがん録)
 十字架とは、なんと喜ばしいうましい、神秘な経験でしょうか。普通のクリスチャンの考えている十字架とは、およそ違います。「私は自分を殺し、十字架して神に仕えます」と多くの人は一生懸命、自分に死のうと努力するが、そんなことではありません。霊的なあまりの喜びに自分を十字架するのです。霊の十字架は甘美です。肉の十字架は苦痛です。御霊に救われし喜びに十字架があるのであって、禁欲したら十字架で救われるものではありません。
 パウロは、「キリスト・イエスに属する者は、肉とともにその情と欲とを十字架につけたり。もし我ら御霊によりて生きなば、御霊によりて歩むべし」(ガラテヤ5:24-25)と言っていますが、聖霊だけ、天の生命だけに、この体を生かして生きる時、神の愛だけが自分を占領していてくださる。という愛の喜ばしい経験に至るものです。自分で禁欲することとは違います。代わりの霊的生命が来ていないのに自分をいたずらにいじめて殺して、禁欲しても何になるか。
 同じく、ガラテヤ書6章14節に「しかし、私自身には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世は私に対して死に、私もこの世に対して死んでしまったのである」とあります。これはなんですか!もう自分には何もない、キリストの霊が盛られ、愛が注がれるとき自分の肉の思いで生きるというような余裕を失う。❶すっかり十字架され、キリスト つまりは宇宙の愛にだけ包まれている時、これほど幸せなことはない。キリストだけが自分を引き廻して下さる時、これほど誇らしいことはない。
 神の心が自分の心。自分の幸福は、また神の幸福。❷神と自分とが切っても切れない境地で生きている時に、二律背反することはありません。もう我を立てる必要が無い。むしろ自分を十字架できないことが、苦痛であり残念なものです。」    以上
 師は、確かにヨハネ伝14章の奥義を体得せられていた。それゆえに主イエスが一緒にいるような力ある奇跡の業を豊かに体現していました。癒しの巨星である長尾先生も同じ❷神との合一を語っていました。「人々を愛し癒すために、❶よろこんで自分の命を神にさしあげた」とも言っていました。
 この霊界の先達の話しは、われわれの指針でもあります。そして、福音書の中でひときわ輝く以下の聖句を、われわれも理解するだけでなく体現しとうございます。

「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。」ヨハネ伝14:11ー12

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