神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

神なる我 〜敬愛する師34

生命の光7月号の記事に思う

ヨハネ伝14 章

14:11

わたしを信じなさい.❶わたしは父の中におり、父はわたしの中におられる.しかし、もし信じないなら、わざそのものによって信じなさい。
14:12
まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.わたしの中へと信じる者は、わたしが行なうわざを行なう.そればかりか、もっと大きなわざを行なうのである.なぜなら、わたしが父に行くからである。
14:13
あなたがたがわたしの名の中で求めるものは何でも、わたしはそれを行なう.父が子の中で、栄光を受けられるためである。
14:14
あなたがたがわたしの名の中でわたしに何を求めても、わたしはそれを行なう。(回復訳)

 

記事の中で、敬愛する師は、以下のように語っています。

「❶わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい」は原文では「わたしに信ぜよ、❶わたしが父の中におり、父がわたしの中にあることを」です。それは、「人間イエスを信ぜよ」と言っておられるのではない。イエスも私たちも、人間であることには変わりはありません。しかしこの❷人間イエスは、父なる神の❸懐(ふところ)におられた。神様もまた、イエスの中にいてくださる。イエスと父なる❹神の霊とがひとつに❸融合している。そのような普通の人間の我ではない❺我を信じてほしい、という意味です。❺神と人とがひとつになっている。これは宗教の奥義です。

「もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい」とありますが、「わざ」と言うのは、キリストがなさっている奇跡的な業のことです。嵐をも鎮め、何もない荒野で5千人に食事をさせ、死人をも蘇らせるという、普通の人間にはできないような不思議な業をキリストがなされるのを見たのなら、この人は人間だろうか、神だろうかと考えてみてほしい、と言われるのです。

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先日、アメリカで神癒について研究している村山君が手紙を下さいました。私は、出発なさる時に、くれぐれもこの人に言って聞かせました。「君は医者であるし、インテリだ。だから❻自分の頭に頼って、頭で考える癖がある。しかし、人間の頭で考えられる範囲というのは狭い。全然知らない世界に行って、頭でどれだけ考えたってどうなるんだろう。それよりも『神様、どうぞ導いてください。神様、今日はどうしたらいいでしょうか』といつも祈って、祈りにおいて導かれる生活、❹神の霊に導かれる霊導の生活をしなさい。神の霊は必ずあなたを導くだろう」と。

彼に許されたアメリカの滞在期間は40日ほど。もう期限も切れそうで、退去命令がくるかもしれない。けれども、彼はなおアメリカに留まって学びたいと願っている。アメリカは滞在資格について、非常にやかましい国です。お金も、もうつき果てた。そんな中にあっても、村山くんはたじろぎませんでした。

「神様、あなたが私をこの国に連れてこられたのだから、きっとお導き下さいますね」と祈ったそうです。

祈っていたら、私から聞いていた信仰の篤い、ある医師のことを思い出し、「そこに行け」と言う声が聞こえた。でも、電話帳にも名前は載っていない。その町に着くと、何の連絡もしなかったのに、なんと向こうから手を振って彼を迎えてくれた。そして、「この人を医者としては雇えないが、信仰は実に素晴らしい。よって、私の施設で宗教的指導者として迎えることとした。一切の費用はここで面倒を見るから、どうぞ滞在期間を延ばしてほしい」と地元の政府機関に一筆書いてくださった。

審査の結果、「今年のクリスマスを過ぎるまで滞在してよろしい。なお更新したいならば、延ばしてあげましょう」と言われたと言うんです。

こんな時、信仰がなかったらビクビクします。しかし、❹神の御手が自分を導きつつあることを信じ、体験しだしたら、もう動ずることがありません。

キリストは言われました、「私が父におり、父がわたしにいたもう。だからわたしはこんな不思議なことをするのだ。また、このようなわたしを信じるならば、同様にあなたがたも大いなることをするだろう」と。

多くの人がこのようなことを信じません。しかし、神様を信じなければ、こんな難しい状況は越えられないと思うような時、「神様、お願いします。もう私にはどうにもなりません」と言って、❼今までの自分が崩れてしまうと、今度は❺神なる我が現れて、神様がじきじきに自分の胸の中でお導きになる。そうしますと、それまでとは違った不思議な境涯が開けてきます。〜以上、敬愛する師の話

 

敬愛する師が言う「❺神なる我」とは、何なのでしょうか?

❷人間イエスと父なる❹神の霊とがひとつに❸融合している。そのような普通の人間の我ではない❺我を説明しているのでしょう。

❷父なる神の❸懐(ふところ)におられたイエス。神様もまた、イエスの中にいてくださる状態。これは宗教の奥義だと語っています。

「❺神なる我」とは、❷人の霊と父なる❹神の霊とがひとつに❸融合している状態です。

1コリント2・3章には、この難解な「❺神なる我」について説明しています。

2:9

このように書かれているとおりです、「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだことのないものを、神はご自身を愛する者たちのために備えてくださった」。
2:10
神はわたしたちに、❹その霊を通してそれらを啓示されました.❹その霊はすべての事柄、神の深みさえも探られるからです。

いったい人の事柄は、人の中にある❷人の霊のほかに、人の間でだれが知っているでしょうか? 同じように、神の事柄も、❹神の霊のほかにはだれも知りません。
2:12
ところがわたしたちは、この世の霊ではなく、神からの❹その霊を受けたのです.それは、神によってわたしたちに、恵み深く与えられた事柄を、わたしたちが知るためです.
2:13
わたしたちがそれらの事柄を語るのは、❻人の知恵によって教えられた言ではなく、❹その霊によって教えられた言であり、霊の事柄を霊の言で解釈するのです。
2:14
しかし❽魂の人は、❹神の霊の事柄を受け入れません.なぜなら、彼にとって、それは愚かであるからです.また彼は、それを知ることができません.それは、❹霊によって識別されるものだからです

〜「❽魂の人」とは、霊ではなく魂(=人間的な思い、考え)、❷人のことを思っている=人の考えで行動する人のことです。
2:15
しかし❾霊の人は、すべての事柄を識別しますが、彼自身はだれにも識別されません。
2:16
だれが主の思いを知って、彼に教えるでしょうか? しかしわたしたちは、キリストの思いを持っています。(回復訳)

〜2章15節 フットノート❾
❾霊の人とは、自分の魂を否み、❽魂によって生きないで、❹神の霊によって占有され活気づけられている、彼の再生された霊に、自分の全存在を支配させている人です。さらに、彼はそのような霊によって生き、それにしたがって動き、行動します(ローマ8:4)。そのような❾霊の人は、❹神の霊の事柄を識別することができます。なぜなら、彼の霊的な知覚の本能が、その機能を現すことができるからです。(回復訳)

1コリント3章

3:1兄弟たちよ、わたしはあなたがたに、❾霊の人に対するようには語ることができませんでした.むしろ❽肉の人に対するように、キリストにある幼子に対するように語りました。
3:2
わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物を与えませんでした.なぜなら、あなたがたは、まだそれを受けることができなかったからです。しかし今になっても、あなたがたはできないでいます.
3:3
それは、あなたがたがまだ❽肉的であるからです。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるとすれば、それはあなたがたが❽肉的であって、❷人の方法にしたがって歩いているからではありませんか?(回復訳)

〜3章1節 フットノート❾
❾霊の人とは、❽肉にしたがって振る舞わず、❽魂の命にしたがって行動しないで、❹霊にしたがって、すなわち、❹神の霊と❸混ざり合った➓人の霊にしたがって生きる人です。このような人は、そのような❸混ざり合った❺霊によって管理され、支配され、方向づけられ、動かされ、導かれます。

❾霊の人とは、➓人の霊と❹神の霊が❸融合した我(われ)を持つ人です。「もう私にはどうにもなりません」と言って、❼今までの自分が崩れてしまうと、今度は❺神なる我が現れて、神様がじきじきに自分の胸の中でお導きになる。そうしますと、それまでとは違った不思議な境涯が開けてきますと、敬愛する師は話していました。➓人の霊は、人の魂(思い)とは異なります。人の魂は、肉的な考え、思いに満ちています。❽肉にしたがって振る舞わず、❽魂の命にしたがって行動しないで、❹霊にしたがって、すなわち、❹神の霊と❸混ざり合った➓人の霊にしたがって生きる人が、師の語っている「❺神なる我」です。死んでいたそれぞれの➓人の霊が目を開き、❹神の霊と❸混ざり合って、❺神なる我になります。

そのような❸混ざり合った❺霊によって管理され、支配され、方向づけられ、動かされ、導かれるとウイットネス・リーも回復訳聖書で説明しています。

「もしそれが信じられないならば、(キリストがなさっている奇跡的な)業で信じなさい」と言われた主。同様に、奇跡的な体験談=実際の生活の中の証しから❺神なる我を紹介していました。

「❻自分の頭に頼って、頭で考える癖がある。しかし、人間の頭で考えられる範囲というのは狭い。全然知らない世界に行って、頭でどれだけ考えたってどうなるんだろう。それよりも『神様、どうぞ導いてください。神様、今日はどうしたらいいでしょうか』といつも祈って、祈りにおいて導かれる生活、❹神の霊に導かれる霊導の生活をしなさい。神の霊は必ずあなたを導く」という生活実践が、大切だということです。

そして、❹神の御手が自分を導きつつあることを信じ、体験しだしたら、もう動ずることがありません。「わたしが父におり、父がわたしにいたもう。だからわたしはこんな不思議なことをするのだ。また、このようなわたしを信じるならば、同様にあなたがたも大いなることをするだろう」と主イエスは語っているのです。

https://www.makuya.or.jp/lec-809-uchina/

この記事の中にあるように、「キリストに導かれると言うことを、人生において実験してみることです。その時、『この人は、本当にキリストを信じている人だ』と言うことが証明できるのです。このことが身に付いたら、信仰生活は楽しくてたまりません」という言葉が、心に残りました。

当時の敬愛する師の聖書理解は、今のキリスト教界のそれを超えた、証しを伴う実践的な理解だったとわかりました。ありがとうございました。

https://www.makuya.or.jp/244-kakure/

 

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2016/06/14/081411