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神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(神の至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

敬愛する師19 ~火渡りの悪評

 手島佑郎氏(ご子息)の話より「マクヤが他のキリスト教会から誤解を招いたものの一つに火渡りがあります。火渡りを宗教的実践として採用した発端は次のような経緯です。

 熊本市から南東にバスで1時間ほど行った田舎に木山不動という寺があります。そこでは毎年2月に火渡りの荒行がおこなわれ、素足で火床を渡ると、その年の無病息災、家内安全が約束されることで有名でした。

 たしか1958年の2月のことです。父はそれを見物に行った。護摩を焚いて、行者が気合とともに火の道を渡る。

 父はそれを見ていて、ふと思った。キリスト教は自分たちが最高の宗教だ、全能で最高の神に仕えている、なにも恐れるものはないと誇る。一方、不動尊信仰など偶像崇拝だと軽蔑している。だが、最高の神により頼んでいるのであれば、火など怖くないはずだ。本当に自分は火を恐れないだろうか。

 そう思うと、自分自身の信仰を試してみたくなった。神を試すよりも、自分が本当に❶恐れなき信仰に生きているか。万一、火の中、水の中にでも❷殉教する覚悟が出来ているかどうか。父は、やにわに火渡りの行列の中に加わった。驚いたのは周囲の人々である。いきなり、見知らぬ男が、お経も唱えないで、スタスタと火の中を渡った。火傷も怪我もしなかった。

 こういう体験をした上で、自分が渡れたから、今度の聖会で皆も火渡りをしようという次第になった。火渡りの意義は、神を試みるのではなくて、殉教する覚悟ができているかどうかであった。私の経験ですが、実際に火渡りをしてみると、よしんば火傷しても、自分の信仰が足らなかった、キリストに申し訳ない。そう自分を反省するのです。渡れば渡ったで、自分のような信仰の薄い者が火を渡れたのは、何と神の愛は大きいことか、とかえって感謝が増す。以来、火渡りはマクヤの定例行事になったのです。

 マクヤでは、火渡りをするさいにダニエル書3章の記事を引用します。バビロンのネブカデネザル王の時代に、ダニエルの友人、シャデラク、メシャク、アベデネゴが火の中に入れられたが無事に助かったという記事です。そういう記事を読んで、文字通りに実験する点で、父の信仰は極めてファンダメンタルな一面を持っていました。それは、同時にエンペリカル(実証的)で実験的信仰であったとも申せましょう。」~手島佑郎氏談

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Ikuroh Teshima.html より

 敬愛する師である手島郁郎先生は、火渡りを実際にやってみて、その効果を見出したのだと思います。現今のクリスチャンは、「大迫害の時代が来るときに、それに耐えられるような信仰を持っているのだろうか。安逸安寧に過ごす者たちが、死を賭して信仰を守る❶恐れなき信仰に生きているだろうか」。自分も含めて疑問に思うことがあります。そのために私自身は、殉教の覚悟を確認する方法を時々行っています。それは火渡りをしているわけではありませんが、そんな切迫した状況を自分に課して、❷殉教の覚悟をつけることは、大切なことだと思います。師にとって火渡りは、弟子たちの❷殉教の覚悟を見る上にもやってみたいという、ご愛敬であったと思います。しかし、世のクリスチャンと言う人たちは、たかだかその一事をもって批判し、異端だと決めつけたのです。佑郎氏は、父である郁郎先生の召天後、マクヤから距離を置いています。私も、同じ立場であり、今はプロテスタント系の教会に通っています。しかし、自分なりに水と霊で殉教の覚悟を見る方法を行うことがあります。こんな少し過激なことをすれば、そんな私もきっと異端だと言われるのでしょうね。

《神社参拝は絶対しない!》

 また、師は今のマクヤの一部の方がやるように神社に参拝をするようなことは決してありませんでした。佑郎氏の著書「わが父・手島郁郎を語る(p61)」でも参拝について郁郎師の話を載せています。そこでは手島郁郎師が「ぼくは、絶対に参拝しない。伊勢を尊敬することと神社を参拝することは別だ。ぼくはキリストしか拝まない。」と言いきっています。どうぞお読みになってください。敬愛する師の著書はたくさんあり、その内容に非常に感銘を受けます。たぶんあまりみ言葉が開かれていない方には、何を言っているかわからないこともあるでしょう。しかし、今の時代は、まだマナを2倍集めることができる時代(出エジプト16:5)です。ですから、多くの霊的な教役者は、40~60年前に師が語っていたことと同じことをやっと話し出しています。また、私自身体験的に師の言葉を実証してきました。師の圧倒的な奇跡力や啓示を見ると、今のマクヤがどうあれ、私は、手島郁郎師を20世紀を代表する預言者だと思っています。

 そういえば、イエス様ご自身も祭司長や民の長老たちにののしられ、異端さながらの扱いで、十字架刑を受けたのですね。地上のことではなく、天のことを語る預言者は、いつの時代も誤解や迫害を受けるものです。

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