神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

復活の主を求めて 〜敬愛する師42

敬愛する師のメッセージには、涙が出ます。

生命之光 3月号より

エスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ(わが大師よ)」と言った。それは、先生という意味である。イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから」

ヨハネ福音書20章15~17節

私はこの物語を瞑想し、思いにふけっているうちに、ハッとしました、 「手島郁郎よ、おまえが幼い時から、わたしは幾たびおまえを憐れんで、導いてきただろうか」と。戦時中、軍の牢獄から救出され、また戦後、アメリカ軍政官の追及を受けて阿蘇の山奥に逃げた時にも、涯なき荒野の奥で救われたではないか! あの時、私はキリストの御声を聴きました、「わたしはおまえに、悩みのパンと苦しみの水を与える。このことに耐える覚悟ができるならば、おまえを教える者は再び隠れることがない。おまえの目は、常にその教える者を見るだろう。おまえが右に行き、あるいは左に行くにも、その後ろ辺から『これが道だ、これに歩め』という言葉を耳に聞くだろう……」と。イザヤの預言が肺腑(はいふ)を貫くように刺し込み、まばゆい主の臨在に接したことがあった。 ああ、そうでした。日ごと夜ごとに祈れば、いつも鮮やかに主の臨在を感じていた私でしたのに、今は床に就いたまま一人身動きすることも物憂い自分。だが急に、「マリヤよ」と呼びたもうたのと同じ御声が、「手島郁郎よ」と言って呼びたもうのを感じました。 「ああ、主よ! 私の大師イエスよ!」と叫ぶと、お慕いしてやまない主イエスの息吹が……みずみずしい感情が泉のようにわき上がり、身も心も、力がよみがえってきました。急に一転して心ときめき、力が全身にみなぎってくるのを感じました。〜以上

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2022.2.28撮影

以下に全文掲載されています。

https://www.makuya.or.jp/lec-829-fukkat/

 

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