「イエスがベタニアで❶重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」
マルコによる福音書 14:3 (新共同訳)
https://www.bible.com/1819/mrk.14.3.新共同訳
「過越の六日前に、イエスはベタニヤに来られた.そこには、イエスが死人の中から復活させたラザロがいた。
そこの人々は、イエスのために晩餐を設けた.マルタは給仕をしていた.ラザロは、イエスと共に食卓に着いていた者の一人であった。
その時マリヤは、非常に高価で純粋なナルドの香油一リトラを取って、イエスの足に塗り、自分の髪の毛で彼の足をぬぐった.するとその家は、香油の香りで満たされた。」ヨハネ伝12:1-3(回復訳)
ここに出てくる❶重い皮膚病のシモンとは、ハンセン病であった可能性が高いでしょう。
ハンセン病は、らい菌に感染することにより、皮膚や神経に症状が現れる感染症のひとつです。
古くから存在している感染症の一種ですが、原因菌の感染力は非常に弱く、多くの人は自然免疫を持っているといわれています。
しかし、皮膚の白化、鼻や手足の一部が腐って朽ちたり変形するため、患者は完治後もその容姿から、一生社会から疎まれてしまうのです。そのため、古くから人々に恐れられてきたのです。
その❶重い皮膚病のシモンの家に、イエスの一行は宿泊し、食事を共にしたのです。場所はベタニア、イエスが死人の中から復活させたラザロやマルタ、マリヤもこの村に住んでいました。人々は、シモンの家でイエスのために晩餐を設け、マルタは給仕を手伝い、ラザロも呼ばれてイエスと共に食卓に着いていた者の一人であったとあります。シモンは、多分以前にハンセン病を癒されて主を信じ、家を開放して一行に食事をもてなしたのでしょう。
その時マリヤは、非常に高価で純粋なナルドの香油一リトラを取って、イエスの頭や足に塗り、イエスの受難の備えをしたのです。
敬愛する師もハンセン病患者と寝食を共にすることがありました。
1950年頃、患者たちの依頼で手島郁郎師は、熊本のハンセン病施設、菊池恵楓園の患者たちと礼拝をし、 彼らと共に食事をしていたと聞きます。手島師と教友たちも、毎週恵楓園にでかけ、夏期集会には、毎年恵楓園の教友も参加し、同部屋で同じ食事をし、寝泊まりしていたと聞きます。1950年頃は、まだハンセン病の薬プロミンが開発されたころでしたが、まだまだハンセン病患者には恵楓園のような隔離された施設がたくさんあり、患者に対する差別は酷いものでした。
1950年には、熊本県天草で恋人に兄のハンセン病を知られた17才の少女が自殺。熊本県坂本村でハンセン病に罹患した父を息子がライフルで射殺し、自らも自殺。1951年には、山梨県でハンセン病感染が出た一家9人が心中しています。その背景には、当時のハンセン病に対する強い差別があったことが見えてきます。
そんな時期に、敬愛する師は、ハンセン病の感染を恐れることなく、同じ兄弟姉妹として寝食を共にする真実の信仰の持ち主でした。恵楓園の患者たちは、師の示した真実の愛にキリストを受け入れました。また手島師の召天時には、園の兄姉が大変に悲しまれたと聞きます。シモンの家で食事する主イエスたちとハンセン病患者と寝食を共にする師の集団には、畏れなき心=無畏心が共通してあったことがわかります。
敬愛する師は、ハンセン病患者のために仕えたモロカイ島のダミエン神父のことを語っておられました。ダミエン神父は、自らもハンセン病に感染し、殉教したのです。
モロカイ島のダミエンの碑には、次の言葉が刻まれています。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ヨハネによる福音書 15:13(新共同訳)
https://www.bible.com/1819/jhn.15.13.新共同訳
「友のために」〜この言葉がキーワードなのでしょう。
「友のために」、疫病に対して防疫するのは、正しいことです。
ダミエン神父は、ハンセン病患者の友となり、「友のために」16年間奉仕し、自らも感染してしまいました。これもまた、正しいことだったのでしょう。
しかし、忘れてはいけないのは、もう一段上の世界の信仰。主イエスの信仰は、疫病もハンセン病も癒してしまう力溢れる御救いなのです。それを体感して生きる人に無畏心があります。師はそのようなキリストの奇跡力の伴う無畏心の人でした。