神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

霊の人に会う 〜知恵と知識のことば

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朝から仕事のため、礼拝に出れず、少し遠いが北部にある教会を無理矢理に訪ねました。私のために、その教会の牧師は礼拝を開いてくれました。会堂の中で、「よくいらっしゃいました」と語る師を見たときに、驚きました。その顔が輝いているのです。「先生、何かあったんですか」と思わず聞いてしまいました。見えるんです、砕かれた心。心砕かれて砕かれて、癒されている。そこにイエス・キリストの霊がしっかりと現れている。あぁ、これが「顔が輝く」と言うことなのか?あぁ、この方の霊力は何と高いところまで達しているのか。感服して涙が出てしまいました。説教の中で、知識の言葉が語られました。ヨハネ21章から、主イエスの愛に溢れた質問が三度、ペテロへ投げかけられました。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しますか?」この箇所から、十字架にかかる前に三度も主を知らないと否んだペテロに対して、キリストがインナーヒーリングを行ったのだと説教してくれました。私は、心の中に、ひとつの傷を持っていました。それを、ヨハネ伝21章から主がこの方の口を通して語ってくださいました。いつもご臨在の前に涙する時、心の奥底で、過去の長い年月の主との離別という傷があり、それを悔いているのです。それは私にとって心の棘でした。学生時代に、通っていたホーリネス系の教会の牧師に躓いて、献身の道を諦めました。そればかりでなく、牧師が辞めたあと長い間教会には通えなくなってしまったのです。信仰から離れ罪の中での30年以上が、本当に残念で残念で仕方がない期間なのです。でもその棘がなければ、信仰者としての私は傲慢で神の前に膝を曲げることのない愚か者になっていたことでしょう。だからこの棘は、今も取り除かれることはないのでしょう。

しかし知識のことばのあるこの方は、私の心の傷を見抜いて、主イエスのように、「わたしを愛するか?わたしの羊を飼いなさい」と語るのでした。私がもっとも畏れていた言葉ではないか。私は牧師に躓いて、献身の道をも捨てた者だ。その情けない者に対して、主イエスがペテロに語ったように、「わたしを愛するか?わたしの羊を飼いなさい」と三度もせまるのです。私の心の棘が取り除かれた時、私は全き献身に身を置くことができるのでしょう。

しかし、この棘は、パウロが迫害した兄弟たちの姿を忘れられないように、記憶に残すべきものだと感じるのです。主は、そのためにパウロの目まで打ったのです。自省し、自分が高ぶることがないためなのでしょう。主イエスが私の心のこの棘を抜いて傷を癒してくださるなら、なんとありがたいことでしょう。可能ならそうしていただきたいのです。ただし、傲慢なこの者には、この棘がまだ必要なのかもしれません。

知識の師は、その霊力を持って、私の心の傷を見抜いていたのです。このような方が、日本にいらっしゃるとは思いませんでした。確実に心が癒されています。また、寄せていただきたいです。感謝でした。