「われわれの信仰とは1」で、ローマ書3:22 から、❶主イエスご自身の信仰(ピスティス)で開かれた「神の義」を、われわれが主イエスに❷近づくことで与えられることを説明しました。
中風の男や長血の女の癒しから、信仰=「❷主イエスに近づくこと」であると説明してきました。
ローマ3:22
全て信ずる(❷イエス・キリストに近づく)者に対して❶イエス・キリストからの信仰を通した 神のその義は、今、差別のないものです。(私訳)
つまり、「❶イエス・キリストの信仰(ピスティス)が開いた神の義➕われわれの信仰(❷イエスに近づくこと)=神の義の拝受」は差別のないたもの だということでした。
旧約聖書にも、この信仰の奥義を実践して、天に挙げられた者がいました。
創世記 5:21-24
「エノクは六十五年生きて、メトセラを生んだ。 エノクは、メトセラを生んだ後、三百年、❸神と共に歩み、息子たちと娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。 エノクは❸神と共に歩み、❹神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(回復訳)
創世記5:24
בראשית 5:24 Hebrew Bible
ויתהלך חנוך ❸את האלהים ואיננו ❹כי לקח אתו אלהים׃
エノクは、創世記の5章で、人類として最初に肉体のまま、❹神(エロヒム)が取られた人間です。つまり、生きたまま天へ挙げられたと言われています。
エノクがこの世から❹取られた理由は、❸神と共に歩んだからです。「神(エロヒム)」は複数形ですので、「❸神々と共に歩む」と訳すべきです。「❸神々と共に歩む」とはどんな状態だったのでしょうか。それも三百年もの長い間、「❸神々と共に歩み」とあります。三百年間、❸神々と共に歩んだ生活?
この一節だけでは、理解できませんが、他にもエノクと同じ歩みをした人がいます。
創世記 6:9
「ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは❸神とともに歩んだ。」( 口語訳)
創世記6:9
אלה תולדת נח נח איש צדיק תמים היה בדרתיו ❸את האלהים התהלך נח
「ノアは❸神々(エロヒム)とともに歩んだ」のです。彼は、❸神々(エロヒム)とともに歩んで、主の言葉を聞き、周辺の人々からバカにされながらも、巨大な箱舟という建造物を造り、大洪水から家族や生命の種を救いました。
恒常的に、神々と共に歩むとはどういう歩みでしょうか?「〜と共に」〜❸אתがどんな状態だったのでしょうか?
前置詞❸אתには、種々の意味があります。例を挙げていきます。
創世記4:1 〜を、 from 〜から
והאדם ידע ❸את חוה אשתו ותהר ותלד ❸את קין ותאמר קניתי איש את יהוה׃
アダムは妻エバ❸を知った。彼女は身ごもってカイン(「得た」という意味)を産み、「わたしはYHWH❸から男子を得た」と言った。(私訳)
創世記5:22 with 〜と共に、〜と一緒に
וַיִּתְהַלֵּ֨ךְ חֲנ֜וֹךְ ❸אֶת־ הָֽאֱלֹהִ֗ים אַֽחֲרֵי֙
そして、エノクはエロヒム❸と一緒に歩んだ
創世記6:14 in 〜の中に
קִנִּ֖ים תַּֽעֲשֶׂ֣ה ❸אֶת־ הַתֵּבָ֑ה וְכָֽפַרְ
箱舟❸の中には部屋(複数)を造り
創世記14:9 against 〜に対して
אַרְבָּעָ֥ה מְלָכִ֖ים ❸אֶת־ הַחֲמִשָּֽׁה
四人の王は五人❸に対して
創世記19:13 before 〜の前に
גָֽדְלָ֤ה צַעֲקָתָם֙ ❸אֶת־ פְּנֵ֣י יְה
叫びが、主の御顔❸の前に大きくなった
❸אתには、種々の意味がありますが、起源は、「❷〜に近接する」ということです。
エチオピア正教会における旧約聖書の1つエノク書には、天使が出てきます。天使たちがエノクと接している姿が書いてあります。ここでは、詳しく扱いませんが、神々(神霊)と近接して生きていたのが、エノクの人生でした。
エノクについては、ヘブル書に詳しく書かれています。
ヘブル11:5.6
5❺信仰によって、エノクは❹死を見ないように移されました.神が彼を❹移してしまわれたので、彼は見えなくなりました。なぜなら、彼が移される前に、彼は神に喜ばれていたという証しを得たからです。
6❺信仰がなくては、❻神に喜ばれることはできません.というのは、❼神に進み出る者は、神がおられることを信じ、彼を❽熱心に尋ね求める者たちに報いてくださる方であることを、信じるはずだからです。(回復訳)
「❼神に進み出る」とは、ギリシャ語の❼προσερχόμενονが使われており、意味は、come up to, come to, come near (to), approach=「❷〜に近づく」です。
信仰の本質は、「❷神に近づく」ことです。❼神に近づく者は、神がおられることを信じ、彼を❽熱心に尋ね求める者たちです。神は❽熱心に尋ね求める者たちに報いてくださる方です。その報いとは、❾永遠の命です。
ヘブル11:6を再度見てみます。
❺信仰がなくては(近づかなくては)、❻神に喜ばれることはできません.というのは、❼神に進み出る(近づく)者は、神がおられることを信じ、彼を❽熱心に尋ね求める者たちに報いてくださる方であることを、信じるはずだからです。
〜❺神に近づくことで、❻神は喜ばれます。❼神に進み出る(近づく)者は、神がおられることを信じ、神を❽熱心に尋ね求める者たちに報いてくださることを信じます。この「❽熱心に」がキーワードかも知れません。
ユダの手紙1章でも、エノクについて触れています。
14アダムから七代目のエノクも、これらの者たちについて予言して言っています、「見よ、主は彼の千万の聖徒たちと共に来られた.
15それは、すべての者に裁きを行ない、➓不敬虔な者が不敬虔によって行なったすべての不敬虔なわざについて、また不敬虔な罪人たちが彼に逆らって語ったすべての暴言について、罪に定めるためである」。
16これらの者たちは➓つぶやく者、不平を言う者であり、➓自分の情欲にしたがって歩き、その口は➓大言壮語し、➓利益のために人にへつらうのです。
17しかし、愛する者たちよ、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが以前に語った言葉を思い出しなさい.
18すなわち、彼らはあなたがたに言いました、「終わりの時に➓あざける者が出て来て、自らの➓不敬虔な欲にしたがって歩く」。
19これらは分裂を起こし、⓫魂的であり、⓬霊を持たない者です。
〜エノクの予言は、「見よ、主は彼の千万の聖徒たちと裁きを行ない、➓不敬虔な者、➓逆らって語ったすべての暴言について、罪に定めるためである」との内容で、具体的に➓つぶやく者、不平を言う者、➓自分の情欲にしたがって歩き、➓大言壮語し、➓利益のために人にへつらう者を罪に定めました。
また、主イエス・キリストの使徒たちが以前に語った言葉「終わりの時に➓あざける者が出て来て、自らの➓不敬虔な欲にしたがって歩く」。
これらは➓分裂を起こし、⓫魂的、つまり聖霊によらず自分の考えを優先して行動する者であり、⓬霊を持たない者だと言っています。
⓫魂的とは、何でしょう?回復訳に説明があります。
フットノート⓫
「魂」の形容詞形。「プシュケ(psyche―魂)は人格の中心、各個人の『わたし』である。それは各人の中で、人のより高い部分である霊とつながり、人のより低い部分である体とつながる。一方によって上へと引かれ、他方によって下へと引かれる。低い方の欲望に身を任せる者は肉的である。人の霊と神の霊との交わりによってより高い目標に向かう者は、霊的である。途中にとどまっていて、動物的、知的いずれにしても、自分と自分の利益だけを考えているのは、プシュキコスpsychikos、利己的(魂的)な人であり、霊が沈み堕落して、下級のpsyche(魂)に属している人である」(アルフォード)。(回復訳注より)
〜魂とは、人格の中心、各個人の『わたし』自我で、それは霊とつながり、肉体とつながっています。低い方の欲望に身を任せれば、肉的であり、人の霊と神の霊との交わりによってより高い目標に向かう者は、霊的なのですね。自我を消すということではないようです。
⓬霊を持たない者についても説明されています。
フットノート⓬
人の霊であって、神の霊ではありません。背教者は霊を欠いています。彼らは「自分の三部分性の一部分としての霊を持つのを実際にやめたわけではないが(Iテサロニケ5:23)、それを価値ある意味において持つことをやめたのである。それは堕落してプシュケ(魂)の力、個人的命の下になり、それ自身の真の活力を持たないほどになったのである」(アルフォード)。彼らは自分の霊を顧みませんし、またそれを活用しません。彼らは自分の霊によって神の霊との交わりの中で、神と接触しません。また自分の霊の中で生き、歩くこともしません。彼らは肉によって下へと引きずり下ろされ、肉となりました。ですから彼らは良心の感覚を失い(参照,IIペテロ2:12のノート2)、理性のない動物のようになりました(10節)。(回復訳注より)
〜自分の霊によって神の霊と交わる大切さ、神との接触の大切さがわかります。
20しかし、愛する者たちよ、あなたがたは⓭最も聖い信仰の上に自らを建て上げ、⓮聖霊の中で祈りなさい.
21自分自身を⓯神の愛の中に保ち、❾永遠の命へと至らせるわたしたちの⓰主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。ユダ1:20-21(回復訳)
〜20節21節では、エノクのように神と共に歩むには、⓭最も聖い信仰の上に自らを建て上げ、⓮聖霊の中で祈り、自分自身を⓯神の愛の中に保ち、❾永遠の命へと至らせるわたしたちの⓰主イエス・キリストのあわれみを待ち望むことだと、語っています。
ミカ書6:8には、こうあります。
人よ、何が良いことなのかを、彼はあなたに告げられた.
エホバがあなたに求められるのは、公正を行ない、あわれみを愛し、へりくだってあなたの❸神と共に歩むことではないか?(回復訳)
人として何が良いことなのかは、公正を行ない、あわれみを愛し、へりくだってあなたの❸神と共に歩むことだと語っています。
次に、「神を❽熱心に尋ね求める者たちに報いてくださる」の「❽熱心に尋ね求める」とは、どういうことかに触れていきます。
*エノク
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