神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

❤️栄化への実践14 〜十字架は喜悦だ

 神と共に歩み神を✴︎熱心に尋ね求めた旧約のエノク。彼は、神や天使たちと近接し、300年間生きて、ついに天へ挙げられました。彼の神と共に歩む姿勢は、どのようなものであったかを、「われわれの信仰とは2」で触れました。さて神を「✴︎熱心に尋ね求め」神と近接して生きるとは、どのような状態でしょうか?今のキリスト教界に見られるものとどのような温度差があるのか?このことについて敬愛する師の話から、探ってみたいと思います。

 敬愛する師の話より:「神秘な経験の一環せる大きな特徴は、自分の肉体、理性、感覚の全てが死んだ休止状態になるということです。それは休止ではなく、大死一番の精神的大活現なのです。パウロは、ダマスコ途上において、キリストの霊に打たれました時に、息絶えて、三日間は目も見えず、飯も食べられず、無意識のような状態が続きました。まぁ、私が度々、霊界に移されたときの体験を思っても、まるで人間のエネルギーを霊に転換して使うかのように、手足が冷くなり、肺もほとんど活動しているかどうかわからない、肉体はほとんど死んだような状態になり、もう自分を失うほど無我になったりします。神の意識はワッと働く場合、地上の人間の感覚や意識など、もう無用だから眠ったような、死んだようになるのでしょう。しかし、その時、心臓だけが高鳴っています。ハートは愛の象徴です。他の感覚がしっかり静まったような状況になる時に、何が生きているかと言うと神の愛だけです。神の愛に対して心臓だけが高鳴っているのです。
 霊的極地に達しましたときには、「神様!あゝ、もうこれ以上恵んでくださったら、心臓がはち切れそうです!」と叫びたいように、❶狂おしいほど喜ばしい法悦状態に入るものです。キリストの霊が圧倒してくるために、もうたまらなくなって、自分に死んで無我にならないでは、苦しくていられぬようになる。これが十字架の喜びです。「どくろ、識(しき)つきて、喜びなんぞ立せん」(へきがん録)
 ❶十字架とは、なんと喜ばしいうましい、神秘な経験でしょうか。普通のクリスチャンの考えている十字架とは、およそ違います。「私は自分を殺し、十字架して神に仕えます」と多くの人は一生懸命、自分に死のうと努力するが、そんなことではありません。霊的なあまりの喜びに自分を十字架するのです。霊の十字架は甘美です。肉の十字架は苦痛です。御霊に救われし喜びに十字架があるのであって、禁欲したら十字架で救われるものではありません。
 パウロは、「キリスト・イエスに属する者は、肉とともにその情と欲とを十字架につけたり。もし我ら御霊によりて生きなば、御霊によりて歩むべし」(ガラテヤ5:24-25)と言っていますが、聖霊だけ、天の生命だけに、この体を生かして生きる時、❶神の愛だけが自分を占領していてくださる、という愛の喜ばしい経験に至るものです。自分で禁欲することとは違います。❶代わりの霊的生命が来ていないのに自分をいたずらにいじめて殺して、禁欲しても何になるか。
 同じく、ガラテヤ書6章14節に「しかし、わたし自身には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである」とあります。これはなんですか!もう自分には何もない、キリストの霊が盛られ、❷愛が注がれるとき自分の肉の思いで生きるというような余裕を失う。すっかり十字架され、キリスト つまりは宇宙の愛にだけ包まれている時、これほど幸せなことはない。キリストだけが自分を引き廻して下さる時、これほど誇らしいことはない。
 神の心が自分の心。自分の幸福は、また神の幸福。❸神と自分とが切っても切れない境地で生きている時に、二律背反することはありません。もう我を立てる必要が無い。むしろ自分を十字架できないことが、苦痛であり残念なものです。

    娘さんは20年の生涯を、惜しげもなく葬って、なぜ夫のもとへ嫁いで行くのか。これは、自分を忘れるほどに、❹新しい家庭に生きることの方が幸せだからです。

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   パウロが第三の天に上った神秘体験を誇っているが、それも彼が人間性の挫折と弱さを知って神に全托すればこそ、の経験でした。神秘経験においては、しばしば時空を超えて脱魂し、霊肉の浮揚感は天にも至ります。ペテロはペンテコステリバイバルで、なぜに「詩篇16篇」を引用して、ダビデの、主イエスの、というよりも、自分のエクスタシー経験で判断し、解釈しているのでしょうか。原始キリスト教の発生の基礎が、エッセネ派の神秘的宗教に相通じるものであったことを意味します。

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「我は常にわが前に主を見つめまつる。主がわが右に臨在せば、我は動かされじ。この故にわが❺心は楽しみ、わが❻舌は喜び躍った。かつわが❼肉体も、希望に宿るであろう。」(使徒行伝2:25-26)

人は❼肉体、❺心、❻霊魂との三つを持っているが、宇宙には、より近い密接なものに感応する原理が働いているように、我々の❼肉体に近い❺心(感覚)は、❼肉体にすぐに関連して影響を与えるので、❼肉体はよく働いてくれるのです。しかし❻霊魂が高く発達しないときには、上なる霊界と結びつくことができません。この山上で今、私たちの❻霊魂は神を呼んでいますが、なぜ、下山して地上の俗界に下り立つ時に、霊性が天の父より遊離せる状態になるのか。それは❻霊魂と❺心、❼肉体との関係が密接でないからであって、この三つの関連が一つになりきって生きるところに信仰生活があります。「もし我は❻異言(舌)を以て祈るならば、我は❻霊に祈る」(コリント前書14:14)とあるように、頭や、理性で祈るだけでなく、❻舌で、霊性で祈ることをしなければ、❻霊魂が向上発達いたしません。

    私たちの信仰は全人的でなければならぬ。高められた我らの❻霊魂が知情意の全精神に密接に結びつく時、高い世界に感応する性質が発達し、健全な霊性の発達に伴って、低い世界をコントロールして行くことができます。神の❺心は、より感じ易い柔軟な❺心を持つ者に、ビリビリ感応します。大切な事は先ず❺心のコンディションを整えることです。
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    弓を射るときには、自分と的と弓と三位一体になり切らねば射ることが成功しません。神の愛を的にして自ら深く沈潜し切ることをエクスタシー(入神)と言うのです。「❽我もなく、世もなく、ただ主のみ在せり」と、❾一念になって神と対座し接心することが予言霊修の心得です。」〜以上(預言霊修法より)

 敬愛する師は、十字架を❶狂おしいほど喜ばしい法悦状態に入るものとし、❶神の愛だけが自分を占領していてくださる、という愛の喜ばしい経験に至るものと語っています。十字架は、自分で禁欲することとは違う。❶代わりの霊的生命が来ていないのに自分をいたずらにいじめて殺して、禁欲しているのは、違うと言っています。

「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである」とは、もう自分には何もない、キリストの霊が盛られ、❷愛が注がれるとき自分の肉の思いで生きるというような余裕を失う。すっかり十字架され、キリスト つまりは宇宙の愛にだけ包まれている時、これほど幸せなことはない。キリストだけが自分を引き廻して下さる時、これほど誇らしいことはないと語っています。

 神の心が自分の心。自分の幸福は、また神の幸福。❸神と自分とが切っても切れない境地で生きている時に、二律背反することはありません。もう我を立てる必要が無い。むしろ自分を十字架できないことが、苦痛であり残念なものです。それは、花嫁が❹新しい家庭に生きることの方が幸せだからと語っています。

 ❻霊魂と❺心、❼肉体との関係が密接に、この三つの関連が一つになりきって生きるところに信仰生活があり、神の愛を的にして自ら深く沈潜し切ることをエクスタシー(入神)と言うのです。「❽我もなく、世もなく、ただ主のみ在せり」と、❾一念になって神と対座し接心することが予言霊修の心得であると語っています。

 十字架を❶狂おしいほど喜ばしい法悦状態と感応するまでのレベルが、敬愛する師の「接心」でした。このレベルまで、自分と的と弓と三位一体になり切り、射切る集中した祈り。神の愛を的にして自ら深く沈潜し切る一念のエクスタシー(入神)。カータル・シングはじめ数々の殉教者が感じた喜悦を、同じように感じるほどのエクスタシー(入神)を標準(レベル)とした人生を送りとうございます。これがエノクの神と近接して生きた秘訣であり、神の支援と奇跡力を現した敬愛する師の標準なのでしょう。

身は社(やしろ)  心に神を持ちながら 

          よそを訪う(とう)こそ愚かなりけり

                                      〜手島郁郎〜

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