今まで霊眼について、お話ししてきましたが、今回は心耳について触れます。
心耳とは、神の声を霊聴する耳のことです。霊聴するためには、この心の耳が開けなければなりません。
私自身は、霊聴について、今まであまり考えていなかったのですが、敬愛する師が話していた内容を紹介させてください。
「我らの国籍は天に在り」神の国の市民権を持つ者は単に地上に執着せる心をすてるのみでなく、❶神の国に必要な霊性をこそ啓発せねばなりません。過去の肉なるものを想わず、神に密着せる未来の素晴らしい自分を見上げて、そのビジョンをアブストラクト(抽出)してください。
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「愛を追い求めよ」(1コリント14.1)愛は実体である。説明や教理ではない。信仰は事実を直感する(インサイト)ことです。この洞察力で人間の外を見ずして内を見通し、心の内にある大事なもの(愛)を啓培してゆけ、「愛というものを心の内に熱愛せよ」とパウロは言う。
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パウロはダマスコ途上において❷神の声を聞いて倒れた。このようなことは一般の人にはわからぬが、霊的な人には慕わずにおけぬものです。人間は霊的生物です。普通の人間は自分の霊的機能をあまり用いないが、この道具(霊能)は霊妙な楽器です。パウロが❷神の声を聞いたのは霊聴したのでした。
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異言をとくには、「霊聴」と言う心耳を開けなければなりません。霊聴の仕方として、耳の鼓膜の内側から内聴する秘法をまず会得しなければなりません。森羅万象を通じて霊聴できる。
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もし霊聴があるならば、何か恐ろしがったり、嫌なことばかり聞かされる様に感じたら、直ぐ止めねばならぬ。❸悪霊や邪霊の仕業だからです。現代ほど空中の権をとるサタンの霊がはびこっている時代はない。霊聴はキリストの❹御霊に聖別されてからやらねばいけない。直覚的にいろいろの真相がわかってきます。「イエスに、天から雷のごとく声が応答して聞こえた」と書いてあるが、実際、そんなこともあるものです。
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霊が発達すると、❺外側からも神の声が聞こえるが、❻内側からもっと神の御旨がわかるように判断できだすように目指してください。魂の成長なくして信仰の成長はない。信仰が成長すると、心の本地に一杯いいものが芽生えてきます。
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預言する能力が異言よりも優れている、とパウロが論じている第一の理由は、預言ということが、単に異言を語る霊言能力のほかに霊聴能力を伴う複合感情だからです。「異言を解く」と言うのは、他人の神秘な霊言状況を霊聴する能力がなければ、やれません。
霊聴するには、❺客観的に聴く人と、❻主観的に聴く人とがあります。ちょうど音声が耳朶に受け取られて鼓膜に響いて、❺客観的な人の声や物理的な音響のように聞こえてくると感じる。これとは逆に、心の内側に音声を聴くーー❻主観的な寂聴と言うものがあります。
とは言っても、声の抑揚や調子、特有な音色が生き生きと、❺はっきり耳底に印象されて残ることは、結果的には同じなのですが、その❺客観的な確実さを覚えるほど、どんな霊魂の声であるか、より正体をつかみやすく、その意味するところの判断も確かとなります。」
〜以上、敬愛する師の話より
師は、❶神の国に必要な霊性をこそ啓発せねばならないと言っています。パウロがダマスコ途上において❷神の声を聞いて倒れたとき、本当に声が聞こえたのです。❷神の声を霊聴したのです。
異言をとくには、「霊聴」と言う心耳を開けなければなりませんが、霊聴があるならば、何か恐ろしがったり、嫌なことばかり聞かされる様に感じたら、❸悪霊や邪霊の仕業だと言っています。まず、霊聴はキリストの❹御霊に聖別されてからやらねばいけない。そうすれば、直覚的にいろいろの真相がわかってくるのです。
霊が発達すると、❺外側から客観的に神の声が聞こえるが、❻内側から主観的に神の御旨がわかるように判断できます。
霊聴するには、❺客観的に聴く人と、❻主観的に聴く人とがあります。❺客観的とは、人の声や物理的な音響のように聞こえてくると感じると言っています。
これとは逆に、心の内側に音声を聴くのは❻主観的な寂聴です。❺はっきり耳底に印象されて残ることは、結果的には同じなのですが、その❺客観的な確実さを覚えるほど、どんな霊魂の声であるか、より正体をつかみやすく、その意味するところの判断も確かとなると言っています。私自身も心耳を開き、はっきりとした❺客観的な霊聴を求めています。 〜つづく
2020.3.19撮影