以前から日本語訳聖書のローマ書3章22節の誤訳について説明してきたのですが、まだ訳が直らない聖書が多いのが残念です。われわれは、自分の信仰によって救われたのではなく、イエスご自身のピスティス(意味は、信仰,信実・真実)によって開かれた神の義を受け、救われたのです。この大切なことばの誤訳について、また、われわれの信仰とは、何かについて考えてみましょう。
ローマ3:22
3:22 δικαιοσύνη ❶δὲ Θεοῦ ❷διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ εἰς πάντας καὶ ἐπὶ πάντας τοὺς πιστεύοντας· οὐ γάρ ἐστι διαστολή·(Greek NT: Greek Orthodox Church)
3:22❶それは、❷イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。(口語訳)
3:22 ❶すなわち、❷イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。(新改訳3第三版)
3:22 ❶すなわち、❷イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。(新改訳2017)
3:22❶すなわち、❷イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。(新共同訳)
〜どれも意訳により、理解しやすく訳していますが、イエスご自身の信仰であるのに、主体が間違った訳になっています。こんな訳の所為で、日本で福音は浸透せず、教会は力なく萎えています。
3:22 ❶Even the righteousness of God [which is] ❷by faith of Jesus Christ unto all and upon all them that believe;for there is no difference(KJV)
〜❷「イエス・キリストの信仰によって」。まだKJVの方が正しい訳です。
3:22❶すなわち神の義は、❷イエス・キリストの信仰を通して、信じるすべての人にもたらされました.そこには何の差別もありません.(回復訳)
〜一番正しい訳が、回復訳です。
私訳も試みてみます。
3:22全て信じる者に対して❷イエス・キリストからの(イエス・キリストにある)信仰を通した 神のその義は、❶今、差別のないものです。(私訳)
〜私の訳は、だいぶ違うでしょうか。「イエスの信仰」の所有格(属格)を誤解しないように、「キリストからの」としてみました。パウロの熱さが感じられませんか?このクドいような、パウロの表現 δικαιοσύνη δὲ Θεοῦ❷διὰ πίστεως Ἰησοῦ Χριστοῦ を誤訳しているとしたら、日本語訳聖書は、残念でなりません。
この大切な箇所の日本語訳聖書誤訳について、敬愛する師は以下のように語っていました。
敬愛する師の話から〜
(口語訳3:22を指して)「❶それは」と言うのは神の義です。神の義とは何かと言うと、律法による義ではなくて、イエス・キリストの信仰による神の義です。ここに、「❷イエス・キリストを信じる信仰による」と訳してありますが、「信じる」と言う語は原文にありません。正しくは、「δια πίστεως Ιησού Χριστού イエス・キリストの信仰による」です。パウロが、「❷イエス・キリストの」信仰、という時のギリシャ語の用法(所有格を使う)は、一種独特でして、「❷イエス・キリストにある」と言う意味なんです。それは、❸キリストとの生ける交わり、霊なるキリストとの❸神秘的な交わりを言い表しているんです。〜以上〜
イエスの信仰(ピスティス)については以下の記事を参考にしてください。
http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/03/10/095022
http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/01/13/111415
それでは、イエスの信仰(ピスティス)によって救われるのなら、われわれは、何もしないで良いのでしょうか?われわれの信仰は必要ないのでしょうか?キリストに任せておけば良いのでしょうか?
いいえ、違います。
3:22❹全て信じる者に対して❷イエス・キリストからの信仰を通した 神のその義は、❶今、差別のないものです。(私訳) とあるように、キリストにある信仰を通して開かれた神の義は、キリストを信じる者に与えられるのです。
では、われわれは、イエス・キリストからのイエスにある信仰により、神の義を差別なくいただいたのでしょうか?
それとも❹われわれ自身の信仰を通して神の義をいただくのでしょうか?
両方とも必要なのです。私は、こう考えています。
「❷イエス・キリストの信仰(ピスティス)が開いた神の義➕❹われわれの信仰=神の義の拝受 」 であると。
回復訳のフットノートには、こうあります。
ローマ 3章22節
3章22節 フットノート❷
あるいは、イエス・キリストにある信仰。この信仰は、わたしたちの中にあるイエス・キリストの信仰を言います。それは、わたしたちが彼を信じる信仰となりました(26節.ガラテヤ2:16,20.3:22.エペソ3:12.ピリピ3:9)。
信仰には対象があり、信仰はその対象から出てきます。この対象は、受肉した神であるイエスです。人が彼に聞き、彼を知り、彼を評価し、彼を尊ぶ時、彼は人の内側に信仰を生じさせて、人が彼を信じることができるようにされます。こうして、彼が人の中で、彼を信じる信仰となられるのです。ですから、この信仰は彼にある信仰となり、彼に属する信仰でもあります。
神の新約エコノミーの中で、神は人が、受肉した神であるイエスを信じることを願われます。もし人が彼を信じないのでしたら、神の前に唯一の罪を犯します(ヨハネ16:9)。しかしながら、もし人が彼を信じるのでしたら、神の前に極みまで義となり、神はこの信仰をその人の義と認められます。同時に、この信仰はその対象、すなわち、神が受肉した方を、彼を信じる者たちの中にもたらされます。彼は神の義であり、神は義としての彼を、彼が内住している者たちに与えられました(エレミヤ23:6)。これはすべて、彼にある信仰、彼の信仰からであり、それに基づいています(ヘブル12:2)。
〜相変わらず盛りだくさんで難しいですね。
3:22には、❹全て信じる者とありますが、信じる者(われわれ)の信仰とは、何なのですか?イエスから与えられる信仰なのでしょうか?
福音書の中に、答えがありましたので、紹介します。
ルカ伝には、不思議な出来事が記事にされています。以前から不思議に思っていた記事です。
ルカ伝5章
5:18すると見よ、❺数人の人たちが、❻中風の者を床に載せて運んで来た.彼らは彼を運び込み、❼イエスの前に置こうとした。
5:19ところが群衆のために、運び入れることができなくて、屋上に上り、屋根をはいで病人を床ごと人々の真ん中へ、❼イエスの前に下ろした。
5:20すると、イエスは❺彼らの❽信仰を見て言われた、「人よ、あなたの❾罪は赦された」。(回復訳)
この記事で登場したのは、❻中風の者と彼を寝台(ベッド)ごと運んで来た❺数人の人たちでした。
この人たちは、たくさんの群衆のために、❻中風の者を運び入れることができなくて、屋上に上り、屋根をはいで病人を寝台ごと人々の真ん中へ、❼イエスの前に下ろしたのでした。
すると、不思議なことに、イエスは運搬してきた❺彼らの❽信仰を見て言われたのです。「人(❻中風の者)よ、あなたの❾罪は赦された」。
あれ?❻中風の者の信仰を見るのでなく、❺運搬してきた者たちの❽信仰を見たってどういうことでしょう?
運搬して来た❺介助者の❽信仰で、❻中風の者の❾罪が赦されるとはどういうことなんでしょう?
❺「彼らの」と訳されたαὐτῶνは、「彼の」の間違いではないか?しかし、マタイ9:2、マルコ2:5の同一記事でもπίστιν αὐτῶν 「❺彼らの❽信仰」なのです。
マタイ9:2
9:2すると見よ、❺人々が❻中風の者を、床に寝かせたまま❼彼の所に連れて来た。イエスは、❺彼らの❽信仰を見て、その❻中風の者に言われた、「子よ、元気を出しなさい.あなたの❾罪は赦された」。(回復訳)
なるほど「❺彼らの❽信仰」の「彼ら」には、❻中風の者も含まれるのかも知れません。
どの記事を見ても、❺彼らは、イエスと対話したわけでもなく、❻中風の者を、床に寝かせたまま❼イエスの所に連れて来たという行動しか書かれていません。それも屋根をはいで病人を寝台ごと❼イエスの前に下ろした行動です。
彼らは、なぜ屋根をはいでまでして、病人を寝台ごと下ろしたのでしょうか?彼らの強い思いは、ただ「❻中風の者を❼イエスの前に連れて行く」という行為により表現されています。
それに対して、❺彼らの❽信仰を見て、何もしていないただ運ばれて来た中風の人に、「あなたの❾罪は赦された」と語り、中風も癒したのでした。
ここで確認できることは、癒しを求めて屋根をはがしてベッドをつり下ろした強い彼らの意志とイエスに近づく行為です。
また、ルカ伝8章には、➓長血の女の癒しの記事があります。これも不思議な記事です。
8:43さて、十二年間も血の流出を患い、医者に全財産を使い果たしたのに、だれからもいやしてもらえなかった➓女が、
8:44後ろから❼イエスに近づき、彼の衣の房に⓫触った.すると直ちに、⓬彼女の血の流出は止まった。
8:45イエスは「わたしに⓫触った者はだれか?」と言われた。人々がみな否定したので、ペテロは言った、「ご主人さま、群衆があなたに押し迫り、ひしめき合っているのです」。
8:46しかし、イエスは言われた、「だれかがわたしに⓫触った.わたしから力が出て行ったのを感じたからである」。
8:47その➓女は隠れておれないとわかったので、震えながら出て、❼イエスの御前にひれ伏し、彼に⓫触った理由と、いかにして直ちに⓬いやされたかをすべての人の前で話した。
8:48イエスは➓彼女に言われた、「娘よ、あなたの❽信仰があなたを⓬いやしたのです。平安の中を行きなさい」。(回復訳)
➓長血の女のしたことは、黙って背後からイエスの衣に⓫触ったことでした。しかし、主からは「あなたの❽信仰があなたを⓬いやした」と語りかけられました。イエスに近づいて衣に⓫触ることが、❽信仰なのでしょうか?
ここで特筆すべきことがあります。群衆が押し迫り、ひしめき合っているところで、イエスは46節で「だれかがわたしに⓫触った」と言ったのです。それは、「わたし(イエス)から力が出て行ったのを感じたからである」とあります。
マタイ伝9章の同じ記事には、➓長血の女が
9:21「彼の衣に⓫触りさえすれば、わたしは⓬いやされる」と、心の内で言っていたからである。(回復訳)とあります。
➓女は、「彼の衣に⓫触りさえすれば」という強い意志を持って行動していました。それが、いざ衣に⓫触れた瞬間に、イエスから力が出て行き、長血を癒したのです。
しかし、その瞬間では、イエスは、誰が触ったかわからないのでした。つまり、長血の女が信仰深いかどうかなどわからないわけです。
だが彼女は、衣に⓫触った瞬間に癒された。
不思議です。
イエスは、「娘よ、あなたの❽信仰があなたを⓬いやしたのです」と言ったのです。
ここで確認できることは、群衆を掻き分けて❼イエスに近づき、衣に⓫触った女の行為です。それを「信仰が癒した」と言ったのです。
ここでまとめてみます。
中風の者と長血の女の記事で、共通するのは、「❼イエスに近づいた」ということ。近づくために、群衆を掻き分け屋根をはがしベッドをつり下ろす「強い意志や求め」があったということです。それで本人は寝たきりでも、運搬して来た人たちの行動で、癒しと罪の赦しをいただいたのでした。❼イエスに近づく行為を「信仰が癒した」つまり、信仰と呼んでいるのです。
信仰とは、「強い意志を持って求め、❼イエスに近づく」行為なのですね。
また、長血の女では、衣に⓫触った瞬間に、癒しが起こりました。病をおして群衆を掻き分け、衣に触ったその瞬間では、イエスは、誰が触ったかわからないのでした。つまり、➓長血の女が信仰深いかどうかなどわからないわけですが、「彼の衣に⓫触りさえすれば、わたしは⓬いやされる」と、心の内で言い(マタイ9:21)「❼イエスに近づき触れた」ことが信仰として認められたわけです。われわれにとって信仰とは、強い意志で❼イエスに近づく行動そのものです。
このことを踏まえて、ローマ書の聖言の「信仰=近づく」と意訳をしてみます。
3:22❶すなわち神の義は、❷イエス・キリストの信仰を通して、近づくすべての人にもたらされました.そこには何の差別もありません.(回復訳改)
3:22全てイエス・キリストに近づく者に対して❷イエス・キリストからの信仰を通した 神のその義は、❶今、差別のないものです。(私訳)
つまり、「❷イエス・キリストの信仰(ピスティス)が開いた神の義➕❹われわれの信仰(イエスに近づくこと)=神の義の拝受」 だということです。
❷イエス・キリストがご自身の信仰(ピスティス)で開いてくださった神の義は、❹われわれがそれを求めてイエスに❼近づくことで、差別なく与えられるのです。ここに信仰の基礎的理解があります。
これが理解できないままでは、ローマ書も間違った訳になるわけです。
神の義を求めて「イエスに近づく」とは、どうすることなのでしょうか?どのようにしたら主イエスに近づけるのでしょうか?〜栄化への実践12で考えていきます。
2019.8.21撮影
ハリストス正教会ニコライ堂。堂内正面に一般人が入れない聖所があることがわかりました。いろいろと説明してくださり、ありがとうございました。