私は、まとまった時間の中で自身の罪深さを思い出すことが多くあり、「この私には、何も良いものなどない」と考えることが最近多くなりました。
「自分はもう駄目です。どうぞイエスさま、代わりに生きてください」と祈ることが最近の祈りです。主イエスと頸木をともにするとは、自分では何をすれば良いかわからない「私」が主とともに生きて、主に引っ張ってもらうことでした。
しかし、もうその段階では、ありません。
罪深い私は、さらに自分の歩みの危うさを知り、過去の過ちや人々を裏切ってきた罪を思うだに「私」には何も良いものがない、「私」はもういらない!と考えてしまいます。
怠け者で実を結ばない役に立たない自身を十字架につけ殺したいのです。
私の代わりに主イエスよ、あなたが私の心に復活し、生きてください!と心から願うのです。
私は、何と罪深い者でしょう、もう「私」が生きていても何も良い実は結びません。主よ、あなたにこの生命をささげます。
あなたが我が内で中心となり、生きてください。罪深い私こそ死ぬべき者です。私を十字架上に殺してください!
この死こそ、過去に犯した過ちや罪から解放されるために必要でした。十字架上で、私の罪、負債を贖われた主よ、今度は私をあなたに捧げます。私の代わりに主イエスよ、あなたが生きてください。
この祈りにより、重くのしかかる過去の過ちや罪の記憶が消えていき、「子よ、あなたの罪は赦された」マルコ2:5と御声を聴いたのです。
感謝です。
「わたしたちは次のことを知っています.わたしたちの古い人が彼と共に十字架につけられたのは、罪の体が無効にされて、わたしたちがもはや、奴隷として罪に仕えることがないためです.」ローマ6:6(回復訳)
「わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです.そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、わたしを愛し、わたしのためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。」ガラテア2:20(回復訳)
よく耳にする聖句ですが、「生きているのはもはやわたしではありません」とは、体験すべき聖句なのでしょう。
「しかし、キリスト・イエスのものである人たちは、肉をその情と欲と共に十字架につけてしまったのです。」ガラテア5:23(回復訳)
「しかし、わたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇るようなことが断じてあってはなりません.その方を通して、❶この世はわたしに対して十字架につけられ、わたしもこの世に対して十字架につけられてしまったのです。」ガラテア6:14(回復訳)
〜6章14節 フットノート❶
次の節はこの節の説明であって、ここのこの世が、おもに宗教の世界を言っていることを証明します。パウロは本書で、宗教的な人々を取り扱いました。彼らは神の事柄に関心がありましたが、誤って導かれ、誤りの中にあったのです。そして彼らの宗教は、この世となってしまいました。わたしたちは十字架によって、宗教の世界から分離され、こうして新創造の中に生きるよう、資格づけられました。(回復訳)