神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。開示できるもののみです。栄光在主!

❤️栄化への実践21 〜天翔ける祈り

前回の内容の心耳により、霊聴することは大切な段階であります。もう少し深い内容について、まとめてみました。それは、祈りの本質についてです。信仰の基本であり、全てと言えるかもしれない大切なことです。

祈りの本体は、自分ではありません。人間の血肉からは何も良い結果は出ないからです。では、祈りとは誰が中心なのでしょうか?祈りは、内なるキリストが主体なのです。

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2020.5.28撮影

 

ローマ3章

3:21 しかし今や、律法とは別に、しかも律法と預言者によって、❶神の義が明らかにされ、証しされました.
3:22 すなわち❶神の義は、❷イエス・キリストの信仰(ピスティス)を通して、信じるすべての人にもたらされました.そこには何の差別もありません.
3:23 なぜなら、すべての人は罪を犯したので、神の栄光に欠けており
3:24 価なしに,❸彼の恵みにより、❹キリスト・イエスにある贖いを通して、義とされるからです.
3:25 神はこのキリスト・イエスを立てて、なだめの場所とされました.それは❺彼の血により、信仰を通してであって、❶彼の義を明らかに示すためです.すなわち、人が以前に犯した罪を、神は忍耐をもって見過ごされましたが、
3:26 それは現在の時に❶彼の義を明らかに示すためです.こうして❶神が義であり、また彼は❷エスの信仰の者を義とされるのです。
3:27 それでは、❻どこに誇ることがあるのですか? 全くありません。❼何の法則によってですか? ❽行ないの法則ですか? そうではなく、❾信仰の法則によってです。
3:28 なぜなら、人が義とされるのは、律法の行ないによるのではなく、❷信仰によると、わたしたちは勘定するからです。
3:29 それとも彼は、ユダヤ人だけの神なのですか? 彼は異邦人の神でもないのですか? そうです、異邦人の神でもあるのです.
3:30 神は唯一ですから、割礼の者を❷信仰のゆえに義とし、また無割礼の者を、❷信仰を通して義とされるのです。(回復訳)

ここに書かれているのは、❶誰の義?❷誰の信仰?❸誰の恵み?❹誰の贖い?❺誰の血により?❼何の法則?についてなのでしょうか?

もう少し言い換えると、誰がもたらした❶義?誰がもたらした❷信仰?誰がもたらした❸恵み?誰がもたらした❹贖い?誰の❺血によるのか?わたしたちが贖われたのは、誰によるのか?わたしたちの❻どこに誇ることがあるのでしょうか? 全くありません。

わたしたちは、❶イエスの義、❷イエスが父を信じた信仰、❸イエスの恵み、❹イエスの贖い、❺イエスの血により救われたのです。それは、❾信仰の法則によります。

以前に話したように、❷信仰とは、キリストに近づくことです。

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2019/08/25/030442

祈りも、キリストに近づくことです。

キリストと共に十字架につけられた犯罪人は、何をしたのでしょうか?磔(はりつけ)にされながら、「わたしを覚えてください」と言っただけでした。


「そして彼は言った、「イエスよ、あなたがあなたの王国に入られる時、わたしを覚えてください」。イエスは彼に言われた、「まことに、わたしはあなたに言う.今日あなたは、わたしと一緒にパラダイスにいる」。」ルカ伝23:42-43(回復訳)

犯罪人は、イエスの近くでただ「わたしを覚えてください」と言っただけでした。そして、パラダイスに入れたのです。

 

祈りは、誰の祈り?わたしの祈りでしょうか?しかし、その祈りの言葉は、自身から出た言葉では喜ばれないのではないでしょうか?

 

イエスが苦しめられ殺され復活すると話したことに、自身の考えで「そんなことは、ありません」と諭しだしたペテロに対し、

イエスは振り返ってペテロに言われた、「サタンよ、わたしから退け! あなたはわたしをつまずかせるものである.※あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。」マタイ伝 ‭16:23‬ (‭回復訳‬‬)

祈りは自身の言葉なのでしょうか?自身からの祈りでよいのでしょうか?

その言葉は、自身から出た言葉では喜ばれないのです。自身の言葉は「※あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」からです。

「シモン・ペテロが答えて言った、「あなたはキリスト、生ける神の子です」。
すると、イエスは答えて言われた、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである.あなたにこのことを啓示したのは➓血肉ではなく、天におられるわたしの父である。」マタイ伝16:16-17‬ (‭回復訳‬‬)
祈りは、➓血肉ではなく、天におられるわたしの父があらわしてくださる言葉で祈りたいのです。

それは、もはや自分ではないのです。

「わたしは⓫キリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.⓬キリストがわたしの中に生きておられるのです.そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、わたしを愛し、わたしのためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。」ガラテヤ2:20

「⓫キリストと共に十字架につけられた」とは、文字通り、キリストと共に十字架につけられたあの犯罪人を指しているのかもしれません。もう何もすがるものもない犯罪人が主に祈り(語り)救われたように、何も良いものを持ち合わせない罪人が、自身の隣りで十字架につけられた神の御子を見つめ、切羽詰まりイエスに語りかけた姿、主に近づき祈るのが真の祈りなのでしょう。

そして、共に十字架にかかりながら、自分は罪深く死のうとしており、もはや何もない、あと少しで生命すら尽きようとしている。隣りには愛に満ちた無実の罪で磔にされた聖人が怨みごとも言わずに我々の赦しを祈っている。その聖なる姿に接して、救いを求め心に彼を受け入れたとき、「あぁ、生きているのはもはやわたしではない。⓬キリストがわたしの中に生きておられ、祈っているのも、もはやわたしではありません。どうぞキリストと呼ばれるイエスよ、わたしの代わりに生きてください」 と言う経験に至るのでしょう。

そのとき、もうわたしは死ぬばかりの罪人だ。キリストと呼ばれるこの方に心も生命も明け渡そう〜十字架上で「わたしを覚えてください」と願った犯罪人の心は、こんな思いだったのでしょう。

そして、罪人はイエスと共に死にパラダイスに入り、キリストと呼ばれるイエスは3日後に復活されたのです。

世の人の祈りは人間的な肉の願いであることも多いです。しかし、実は祈りはもっと深い、内なる人とのコンタクトであり、一体感というべきものなのです。生けるキリストとの心のコンタクト、接心。サンダー ・シングの祈りのように、 祈りは、神との接心であり、天翔ける体験であり、祈りの中でキリストから多くの内容が一瞬に啓示されるものです。

この接心により、❶イエスの義、❷イエスが開いた信仰、❸イエスの恵み、❹イエスの贖い、❺イエスの血が注ぎこまれ、神の義、神の聖さ、神の愛、神の完全さが理解され、一体化されるのです。サンダーのような天翔ける祈りが変革をもたらし、それが栄化へと近づかせてくれる鍵なのでしょう。栄化とは、キリストご自身なのです。この方に近づくことが我々のささやかなな信仰なのでしょう。

わたし自身は、この深い祈りに少しの畏怖を抱いています。飛び込みきれないのです。まだ霊眼がはっきり見えないのは、そのためです。しかし、もう臆している段階ではないと感じています。神との接心は、次の聖句を完成させる鍵であります。

「わたしが父の中におり、父がわたしの中におられることを、あなたは信じないのか?わたしがあなたがたに語る言葉は、わたしが自分から語るのではない.わたしの中に住んでいる父が、ご自身のわざを行なっておられるのである。」ヨハネ伝14:10(回復訳)

「その日には、わたしがわたしの父の中におり、あなたがたがわたしの中におり、わたしがあなたがたの中にいることを、あなたがたは知るであろう。」ヨハネ伝14:20(回復訳)

 

サンダー  ・シング が語った祈りについて、再度学びましょう。

http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/10/27/221413

 

https://youtu.be/b_oeDwVE2QA