神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

祈りの中で85 ~贖宥状と聖杯の勘違い

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祈りの中で示されたこと。人間的な血ではない。

◆贖宥状Indulgentiaの勘違い

贖宥状とは、16世紀にカトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書。大聖堂建設のための資金を集める目的で、贖罪の証明書として売りに出されたものです。免罪符とも呼ばれ、お金を払えば罪を赦されるような、まるで神社のお札のようなものを売ったのでした。しかし、その贖宥状がひとつの原因になって1517年、ルターが「95か条の論題」をヴィッテルベルグ大学の聖堂の扉に張り出し、宗教改革が始まったのでした。贖宥状(免罪符)は、カトリックの行った大きな勘違い(的外れ)で、その後のキリスト教会にプロテスタント(新教)を生んだのです。

◆聖杯Holy Grailの勘違い

中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会テンプル騎士団がありました。十字軍の派兵以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したのです。その中で、テンプル騎士団は、第1回十字軍の後の1119年に、ヨーロッパ人によるエルサレム巡礼を保護するために設立されました。彼らは聖杯などの聖遺物を探したと言われます。しかし、その古い杯に何の意味があるでしょうか。

19世紀には、多くの団体がテンプル騎士団と結びつけることで、自らその神秘性を高めようとしてきた歴史もあります。著名な秘密結社も同じで、彼らは19世紀に入ってから神殿の図が入った紋章を使い始め、自らのルーツをテンプル騎士団と結び付けようとしました。また、聖杯伝説を、最後の晩餐の「これはわたしの血です」からイエスの血族のこととし、イエスマグダラのマリアの子がいたとしたのです。そのことを神秘的に利用することは、大きな勘違い(的外れ)です。たとえ、秘密結社の言う通り100歩譲ってイエスが結婚していて子供がいても、その子が特別な存在にはなりません。肉にある悪だくみは、かえって罪を増し加えるだけです。また、聖書によれば、イエスには、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ及び妹二人がいたことがわかります。かれらの子孫は、イエスの血族(Blood Line)といえます。その血を継ぐ者が誰であれ、聖書にはこう書いてあります。

「しかし、すべて❶を受け入れた者、すなわち、御名の中へと信じる者に、は❷の子供たちとなる権威を与えられた.彼らは❸血によってではなく、肉の意志によってでもなく、人の意志によってでもなく、❹ただによって生まれたのである。」ヨハネ1:12-13(回復訳)

この世的に見ればイエス系図は、4人の女によって汚されています。タマル、ラハブ、モアブ人のルツ、ウリヤの妻だったバトシェバが祖先にいるのです。イエスの肉の血族が救いをなすのではありません。彼らは大きな勘違い(的外れを)しています。

肉の人間は、アダムからすでに汚れているのです。

しかし、聖霊によってマリアに宿ったイエスは、神の霊により生まれたのです。人間的な血によってイエスが生まれたのではありません。また、❶イエスを受け入れた者は、❸血によってではなく、肉の意志によってでもなく、人の意志によってでもなく、❹ただによって生まれたのです。

「また杯を取り、感謝をささげて、それを彼らに与えて言われた、『みな、それから飲みなさい.これは、多くの人に罪の赦しを得させるために、❺今、注ぎ出されているわたしの契約の血である。』」マタイ26:28-29(回復訳)

このぶどう酒(聖霊の比喩)をご自分の血に譬え、罪のない子羊による契約の血とし聖餐をしました。他の人の血とは関係ありませんし、罪のないご自身の血による契約と言えます。またこの血は、❺今、注ぎ出されている血でもあり、キリストの霊でもあるのです。それを「飲みなさい」と言っています。

十字架上で「エスはもう一度、大声で叫び、の❻霊を渡された。」マタイ27:50 ❻はどういう意味でしょうか。ギリシャ語では、ἀφῆκεν、英語では、(yielded up His spirit=彼の霊を譲った)です。ヨハネ19:30では、παρέδωκεν、(gave up His spirit=彼の霊を渡された)です。誰に渡したのでしょうか。ルカ23:46では、「よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と言っています。父に渡されたのです。しかし、ヨハネ伝14:16ー20では、次のように言っています。

「わたしにお願いしよう.そうすれば、はあなたがたに別の❼慰め主を与えて、いつまでも、あなたがたと共にいるようにしてくださるそれは実際のである.世はそのを受けることができない.それは、世がを見ないし、知りもしないからである.しかし、あなたがたはを知っている.はあなたがたと共に住んでおり、あなたがたの中におられるようになるからである。わたしは、あなたがたをみなしごのままにはしておかない.❽わたしはあなたがたに来る。もうしばらくすると、世はもはやわたしを見ない.しかし、あなたがたはわたしを見る.わたしが生きているので、あなたがたも生きるようになる。その日には、わたしわたしの中におり、あなたがたがわたしの中におり、❾わたしがあなたがたの中にいることを、あなたがたは知るであろう。」(回復訳)

父にお願いし、❼慰め主を与え、❽わたし(イエス)はあなた方に来る、❾わたし(イエス)があなた方の中にいるのです。

エスの望みは、弟子たちへの聖霊降臨です。この世的な血筋など何の意味もありません。❼慰め主である聖霊を受けることこそ、イエスの血族になることです。

神を愛し、その命令を守ったキリストにより、イエスの霊的子孫であるわれわれは、千代に至る祝福を受けたのですから、肉の血族には頼りません。

わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」出エジプト20:6

わたしを愛し、わたしの命令を守る者、この戒めを達成した者とは、イエスにほかなりません。そして、聖霊を受けたその霊的な血族は、千代の恵みに預かったのです!

歴史上では、この世的な考えで勘違いされている方たちがいます。彼らは、見える所の物質により頼み、ニコデモのように見えるものしか信じられないのです。「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。」ヨハネ3:6 

肉によってあれこれやってみても、無駄です。肉の血族によりたのめば、罪を積み、かえってこの世の悪霊に騙されます。イエスの祝福を得るには、聖霊によって新たに生まれ、真の血族になるしかないのです。

ハレルヤ!

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 ※ある誤ったグループへの情宣で、多く方には関係のない話です。

 

🎵Masters of War 〜ボブ ディラン

ノーベル賞受賞を祝ってる場合じゃないぜ〜ボブの声が聞こえてくるようです。ボブ作の「戦争の親玉」という歌があります。好きだなぁ。戦争を裏で操る奴ら、戦争を食い物にする奴らがいます。若き日のボブは軍産複合体と戦っていたのですね。

Masters of War  (Bob Dylan) 歌詞

やあ、戦争の親玉諸君
大砲を作る諸君
殺人飛行機を作る諸君
全ての爆弾を作る諸君
壁の後ろに隠れている諸君
机の後ろに隠れている諸君
諸君に知ってほしい
僕は諸君の仮面を見通せるって事を

絶対に何もしない諸君
破壊の為の製造以外は
諸君は僕の世界の中で遊んでいる
まるでこれが諸君の可愛いおもちゃであるように
諸君は銃を手に取り
僕の視線から逃れる

銃弾が飛んできたら

向きを変えて遠くへ逃げる

昔のユダのように
諸君は嘘をつき欺く
世界戦争は勝つことが出来ると
僕に信じてほしいと思っている
しかし僕は諸君の目を読み
そして諸君の考えを見抜く
まるで下水道を流れる汚水を
見通すように

 

諸君は自分の引き金は留めておいて
他の人々に発砲させる
諸君は後ろでただ見ている
死者の数が増えると
別荘の中へ隠れる
若い人々の血が
体から流れ出て
泥の中に埋められている間に

 

諸君は最悪の恐怖を振りまいた
今までで最悪の
子供を産む恐怖
この世界に
僕の赤ちゃんを恐れさせる
まだ生まれても、名付けられてもいない
諸君は自身の血管を流れる
血ほどの値打ちも無い

 

僕がどれだけ知っているか
諸君に話せるほどの
諸君は僕が幼いと思っているかもしれない
諸君は僕がまだ充分学んでいないと思っているかもしれない
しかしひとつだけ確かなことがある
僕は諸君より若いけど
エス様でさえ
諸君がしていることを赦しはしない

 

ひとつお尋ねします
そんなにお金が好きなの?
それで諸君らの赦しを買えると思っているの?
ほんとに買えると思うの?
僕は諸君がいずれ気付くと思う
死がその代価を支払う時
諸君が稼いだその金は
諸君の魂を買い戻してはくれないと

 

僕は諸君が死んでくれればいいと思う
そして死はすぐにやってくるだろう
僕は諸君の棺桶の後をつける
青白い午後に
そして諸君が埋められるのを見るさ
お墓の底へ
そして僕はその墓を踏みつけ
諸君が本当に死んだか確認するのさ

www.youtube.com

ボブ ディランは、1978年ワールド・ツアー終了後、ボーン・アゲイン・クリスチャニティ の洗礼を受けました。1979年、彼の発表した『スロー・トレイン・カミング』はディラン流のゴスペルで占められていました。しかし、今は殺されずに、米国音楽業界の裏に潜む奴らを相手に疲れ果ててしまっています。

 

祈りの中で84 ~あとの者は先になり

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今日の礼拝では、最後に天が開かれ、御手で雲の上に引き上げられる幻を見ました。会衆が引き上げられるのです。また、「後の者が先になる」について開かれました。

マタイ伝20:10ー16

10ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。

11もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして

12言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。

13そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。

14自分の賃銀をもらって行きなさい。❶わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。

15自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。

16このように、❷あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。(口語訳)

「❷あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。」とはどういうことですか?すると後の者が先になったら、また、その先の者が後になるのではないでしょうか?

そうじゃない、「❶わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。」とは、天国に入るものは、平等である。救いの代価も平等である。誰が先になる、後になるのではない。みな、一緒に入るのだ。同じ救いの代価を受けるのだ。

なるほどⅠテサロニケの通りですね。❸先の者も後の者も共に引き上げられ、空中で主と会い、常に主とともにいるのですね。ハレルヤ!

Ⅰテサロニケ4:16-17

16なぜなら、主ご自身が、1号令の叫びと、天使の長の声と、2のラッパの音と共に、天から下って来られ、そしてキリストにある死人がまず復活するからです。

17次に、生きていて、残っているわたしたちが、❸彼らと共に雲の中に1引き上げられ、2空中でと会います.こうして、わたしたちは常にと共にいるのです。(回復訳)

  

祈りの中で76 ~祈りの真髄SS13

現代のキリスト者の祈りには、食前の祈りのような、形式的であっという間の短い祈りや、心の中で考えるだけの祈りなど、いろいろなものがあります。また、異邦人のように題目を繰り返すような祈り(マタイ6:7)もあります。

サンダー・シングは、「キリストについて知ること、キリストを知ること」の中で、ヨハネ伝より次のように語っています。〜

エスは、ご自分を信じたユダヤ人に言われた、『もしあなたがたが、わたしの言の中に住んでいるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子である.またあなたがたは真理を知る.そして真理はあなたがたを自由にする。』」(ヨハネ8:31-32)「命を与えるのはその霊である.肉は何の役にも立たない.わたしがあなたがたに語った言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ6:63)回復訳

真理とは何でしょうか。真理は教義でも教理でもなく、イエス・キリストご自身であります。真理は本の中に見つかるものではありません。確かに、書物の中には良いものがたくさん見つかるでしょうが、そのどれひとつとして、あなた方を自由にすることはありません。キリストだけが、私たちを自由にしてくださるのです。私は、真の宗教を見つけようと努めてきました。ヒンズー教を試みましたが、イエス・キリストの中にのみ、私は平和を見ることができました。あなた方は、この世のことの中に平和を見つけようとしていますが、それを得られるという確証は、どこにあるのでしょうか。どこにもありません。私たちは、キリストによって、この世界の中で自由にされるのです。ヒンズー教は、生きるキリストを私たちに与える事はできませんでした。今の私は、天においてキリストと共に生きることを予期していますが、天は、この地上に始まるのです。霊魂が神に触れ、私たちが主の臨在を実感するときに、天国とは完全なる霊魂の平和であることが理解されるのです。その時にこそ、地上天国が始まるのです。(まだ私がキリストを信じる以前に)イエス・キリストについて話を聞かされていた頃の私は、常にキリストを憎んでいました。私を癒すものは見つかりませんでした。

キリストに満ち足りていないクリスチャンが多くいます。それは、彼らがキリストを知らないからです。しかし、キリストは真理であり、その真理が私たちを自由にしてくれるのです。私たちは、生けるキリストを通して誘惑に打ち勝ち、サタンを倒す力を得ることができます。それは、本や説教を通してではありません。祈りを通してです。毎日、最低何分かは祈りに費やしなさい。主の中に生きなさい。主は真理です。真理は私たちを自由にしてくれます。私は、人間の作り出した多くの偉業を見てきました。人は空を飛び、機械や電気を操ることができるかもしれません。しかし自分自身の体の欲望は制御できずにいます。自然界を治められても、自分自身を治められずにいます。」~   以上  〜

主のご臨在こそが救いです。ご臨在が感じられるような祈りでありたいです。       

主イエスゲッセマネで祈ったように、汗が血のしずくのように流れるまでの祈りを見たことがあるでしょうか。

エスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた.汗は血のしずくのようになって、地にしたたり落ちた。」(ルカ22:44)回復訳

「このは、肉体にあった日、激しい叫びと涙をもってを死から救うことのできるに祈りと嘆願をささげ、そして敬虔のゆえに、聞き入れられたのです.」(へブル5:7)回復訳

エスの祈りの中で、死んで4日も経つラザロを蘇らせる祈りがあります。そこにも不信仰に対する憤りや涙を流すイエスの姿があります。

エスは彼女が泣いているのと、彼女と一緒に来たユダヤ人が泣いているのを見て、霊の中で憤りを覚え、憂えて言われた、「あなたがたは彼をどこに置いたのか?」。彼らはに言った、「よ、来てご覧ください」。

エスは涙を流された。そこで、ユダヤ人は言った、「見よ、何と彼を愛しておられたことか!」しかし、彼らのある者は言った、「盲人の目をあけたでも、この人を死なないようにすることはできなかったのか?」そこで、エスは再びご自身の内で憤りを覚えて、墓に来られた。それは洞穴であって、それに石が置かれていた。エスは言われた、「その石を取りのけなさい」。死んだ者の姉妹マルタがに言った、「よ、もう臭くなっております.四日もたっていますから」。エスは彼女に言われた、「あなたが信じるならの栄光を見ると、わたしはあなたに言ったではないか?」そこで、彼らはその石を取りのけた。エスは目を上げて言われた、「よ、あなたわたし願いを聞いてくださったことを、あなたに感謝します。わたしは、あなたがいつもわたし願いを聞いてくださることを知っていました.しかしわたしは、周りに立っている群衆のためにこう言いました.それは、あなたわたしを遣わされたことを、彼らが信じるためです」。はこれらの事を言って、大声で叫ばれた、「ラザロよ、出て来なさい!」すると、死んでいた者は出て来たが、手足は布で包まれ、顔は布切れで包まれていた。エスは彼らに言われた、「彼をほどいてやって、行かせなさい」。(ヨハネ11:33-44)回復訳

主イエスのように、こんな涙を流す祈り心をもって、天父に聞き入れられる執り成しの祈りをすることができる人はいるのでしょうか。

大川牧師の祈りには、天に通じる熱心が年輪のように積み重ねられていることがわかります。わたしもこんな祈りの人になりたいです。Shareさせてください。

https://www.youtube.com/watch?v=MbdPmbVUC7U