神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

💖十字架を見上げた ~マナセの回心

今夕、十字架のような雲を見ました。f:id:AdonaiQuoVadis:20170919232500j:plain

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2017.9.19撮影

マナセの祈り〜正教会の正典より

1:1 全能の主よ、/我らの先祖/アブラハム、イサク、ヤコブの神、/彼らに連なり正しく歩んだ者たちの神よ、
1:2 あなたは天と地と/そのすべての装いを造られました。
1:3 あなたは命じて海に境を設け、/栄光ある恐るべき御名によって/淵を閉ざし、封印を押されました。
1:4 万物はあなたの力に震えおののいています。
1:5 人はあなたの栄光の威厳に耐えられず、/罪人への仮借なき御怒りは、/人には忍びきれないのです。
1:6 しかし、あなたの約束された慈しみは、/計り知れず、究めることができません。
1:7 あなたは、いと高き主、/情けあつく、寛大で、慈愛にあふれ、/人に下した災いを悔やまれる方。
1:8 主よ、あなたは正しい者の神。しかしあなたは、正しい人々、/罪を犯さなかったアブラハム、イサク、/ヤコブにではなく、/罪人のこのわたしに、 回心の恵みを/与えてくださいました。
1:9 わたしの犯した罪は海辺の砂より多く、/とがは増しました。主よ、増し加わりました。わたしは天の高みを仰ぎ見るには/ふさわしくありません。多 くの悪事を行ったからです。
1:10 わたしは多くの鉄の枷で引き据えられ、/罪のゆえに、頭を上げることができません。わたしには、安らぎがありません。あなたを怒らせ、/御前に 悪しきことを行い、/忌まわしき像を立て、とがを重ねたからです。
1:11 今、わたしは心のひざをかがめて/あなたの憐れみを求めます。
1:12 罪を犯しました。主よ、罪を犯しました。犯したとがを、わたしは認めます。
1:13 あなたに乞い求めます。お赦しください。主よ、お赦しください。とがもろともにわたしを滅ぼさないでください。いつまでも怒り続けて/わたしに 災いを下すことなく、/罪に定めて、地の奥底に捨てないでください。主よ、あなたは悔い改める者の神だからです。
1:14 あなたは善き御心を示してくださいます。ふさわしくないわたしを、深い慈しみをもって/救ってくださるからです。
1:15 わたしは生涯、絶えずあなたをたたえます。天のすべての軍勢は、あなたを賛美し、/栄光はとこしえにあなたのものだからです。アーメン。

エスの十字架を見上げたときに、ある夫婦の呪いの鎖を十字架が毀ちました。あなた方は代々にわたる呪いから解放されました。

 

神の国の中に入れ ~サンダー・シングSS15

エスは、彼が的確に答えたのを見て、彼に言われた、「あなたはの王国から遠くない」。こうしてこれ以上、だれもにあえて問う者はいなかった。マルコ12:34(回復訳)

 東洋の聖フランシスコとよばれたインドの聖人サンダー・シングは、このように語っています。

サンダーの話より〜

この男性は、我らの主のもとに来て、尋ねました。「すべての戒めの中で第一のものは何でしょうか」。これに対して、主は「心を尽くしてあなたの神である主を愛すること」とお答えになりました。男は答えて言いました。「確かにそれは、どのような全焼のいけにえ供物よりも優れています」と。この人は、救い主の言われたことに反対しなかったように見えますが、彼の答えは心からのものではありませんでした。それで、主は「あなたは神の国から遠くない」と言われたのであります。イエス・キリストは人々の罪を咎めるのが常でありましたが、この人には咎めの言葉はありませんでした。「あなたは神の国から遠くない」。この人は優れた学者で、衆人の見守る前でこのような言葉をかけられ、喜んだに違いありません。一見すると、この人は他のパリサイ人や律法学者よりも優れているように見えますが、そうではありません。彼は、自分が「神の国の中にない」ことをむしろ悲しむべきでした。「近くに」いたのであり、「中に」いなかったからです。この人の宗教は頭のそれであり、ハートの宗教ではありませんでした。頭の事柄は喉を降って胸に触れることは滅多にありません。彼が胸の奥底から答えていれば、「あなたは神の国の中にいる」と主が言われたはずです。安全であるためには神の国の近くにではなく、「中に」いなければなりません。神の国から遠い人々は罪の中で死にますが、「神の国の近く」にいる人も同じことです。「近くに」いる人は救いにはなりません。神の国の「中に」いること、神の国を内に持つことが必要なのであります。

我らの主のお語りになった十人の乙女の話を考えてみましょう。五人は婚礼の家の外におり、残りの五人は内にいました。五人の愚かな乙女たちは、長いこと外で戸を叩き続けました。中にいる人が「あなた方は婚礼の家から遠くないので幸いです」と声をかけたとすれば、「近くにいることが何になるでしょうか。私たちは中にいません。一緒に歌うことができません」と彼女たちが答えたことでしょう。神の国の近くにいるだけでは十分では無いのです。………

ノアの時代、人々は大洪水が起こることを信じることができませんでした。罪を悔い改めなければならないと説くノアに向かって、人々は言いました。「彼は正気ではない。すっかり老いぼれて、頭がいかれている」と。他にも、大工たちが笑いました。かなりの数だったと思われますが、彼らは洪水についてノアの話を、信じていませんでした。「大洪水を信じていないと言うのになぜ働くのですか」と一言伝えると、彼らは「賃金のためです」と答えました。彼らは信じてはいませんでした。しかしいざ大洪水が来て、大水を見たときには、恐怖に駆られたに違いありません。山に逃げ、泳いでも、安全な場所はありませんでした。泳げる人は方舟を見て近寄り、戸を叩きました。「戸を開けてください!」。しかし不幸なことに、誰も戸を開けられませんでした。戸を閉じたのは神であり、ノアではなかったからです。ノアが閉じたのであれば開けることもできたでしょう。大工の中には「方舟を建造する助けをしたのです。私は中に入る権利があります!」と叫んだ者もいたはずです。ノアはこう答えたことでしょう。「神の方舟を作る手助けをしたときに、あなたは信じてはいませんでした。もはや遅すぎます」。人々と方舟の内側との距離は、戸の厚さしかありませんでした。そのように、近くにいると言うだけでは、何の役にも立たないのです。昔の律法学者は、「あなたは遠くない」とキリストが言われたときの心を理解していれば、悲しんだに違いありません。自分が危険な立場にいることを悟ったはずです。

今日、キリスト教国と称する国の教会には、キリストとその教えを讃え、神の国の近くにいる特権を持っている人々が多くいます。彼らは五人の愚かな娘のように泣いて歯噛みをすることでしょう。近くにいると言うだけで、神の王国の中にいなかったからです。よくよく注意しなければなりません。私たちは神の国に入らなければならないのです。どうすれば神の国に入ることができるでしょうか。祈りをおいて他には道がありません。祈りは天への鍵であります。祈れば天は私たちに向かって開かれます。祈れば私たちは主と共にあり、あらゆる種類の危険から守られます。私たちは主の中におり、主は私たちの中にいます。私たちは主を見、人生の中に主が臨在することを実感するでしょう。……… 目には見えずとも、主の臨在を感じることができます。「感じる」とは、活けるキリストの実在を実感し、「今や自分は神の国の中にあり、神の国はわが内にある」と主について証しできる、という意味であります。その時に、私たちは地上天を見るでありましょう。「あなたは遠くない」と言う必要はなくなります。神の国はあなた方の中にあるからです。その時に、私たちを死後天国にいることを望むことだけでなく、「私は今の生において天国にいる。私は主の中にいるからだ」と言えるようになるでしょう。〜以上、1922年3月7日サンダー・シングの講演より

参考:「イエス・キリスト封印の聖書」林陽訳(徳間書店)

1922年に、サンダーは、祈りのなかでご臨在を体験し、神の国の中に住まい、神の国が内にもあることを体験していたのですね。サンダーが警告しているように、私たちのエクレシアは、神の国の近くにあるだけでは不十分です。今必要なのは、エクレシアにキリストを招くことです。ご臨在の中で神の国を体験できるエクレシアとすべきです。その鍵について、サンダーは、「祈りは天への鍵であります。祈れば天は私たちに向かって開かれます。祈れば私たちは主と共にあり、あらゆる種類の危険から守られます。私たちは主の中におり、主は私たちの中にいます。」と語っていたのです。この祈りとは、瞑想に近い異言の祈りです。その中で神の国を幻視し、身体の周囲に臨在を体感できるまでに神の国を開き礼拝することだと感じています。サンダーは、頭でなく胸の奥底からハートで答えることを要求しています。あなたは、ハートで答えられますか。

私は、幸いにも神の国の中で礼拝できるエクレシアを、複数見つけました。まだたくさんあると思います。ただ、本望は、強いご臨在(地上天)の中に日曜日だけでなく毎日留まっていたいのです。

ケルティックウーマンもいいですね。でもエクレシア(教会)の臨在溢れる讃美の方が感動します。

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年老いてもなお 〜敬老の日へ

あなたはなつめやしの木のように威厳があり、あなたの乳ぶさはそのふさのようだ。雅歌7:7

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今がナツメのなる季節なのですね。横浜のナツメ2017.9/8撮影

 

「正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。 彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。 彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。」詩篇‬ ‭92:12-15

朝、示された御言葉が、今日の礼拝のメッセージでも語られました。

 

神の意思疎通その3 ~御霊の導きからの奇跡31 FBより

  FB過去の記事より

 今日は、永田町の集会に行く予定が、出がけに聖霊様の声で、ある教会を示された。なぜかわからなかったが、このようなことはよくある。そこで急遽そちらに向かった。一度しか行ったことのない教会で、遅れてしまった。入っていくと、説教中の牧師先生が叫んだ。「ああ神様。なんていうことか。」私は、わからなかった。しかし、それは奇跡の始まりであった。牧師夫妻は、木曜から祈っていたという。そして、わたしも示されていた通りにおこなっていた。主はその祈りに応えられた。詳しいことは書けないが、この教会では、使徒行伝時代の出来事が今も継続して起きている。皆で確かに「神様はいらっしゃる」と声をあげた。アァメン。栄光在主!
 主の声は、時々、「本当なの?」と思うことをおっしゃるが、疑わずに従うことが大切です。それに従って、思い違いだと感じることもあっても従うのが訓練です。全く理由がわからず、空振りに終わるときもあります。それでも、主が何か示していることがあります。「その電車を使うな」と聞き、あとで運休になっていたり、「その道に行くな」と聞き、大きな事故があったと聞いたり。
 そんな主の御声の小さな訓練に従っていくと、本当に不思議な奇跡的な御心が示されてくるのです。この御声への応答は、主の御心をさぐるスリルがあります。そして、とてもすてきな祝福がついてきます。
 自分の考えや思いではなく、主の御声に従うことで、羊が羊飼いの声を聴き分けるように訓練されるのですね。

敬愛する師の召命の聖句は、イザヤ30:20-21でした。私のとても大切な聖句でもあります。 
「主はなんぢらになやみの糧とくるしみの水とをあたへ給はん なんぢを敎るもの再びかくれじ 汝の目はその敎るものを恒にみるべし
◉なんぢ右にゆくも左にゆくもその耳に これは道なりこれを歩むべしと後邊(うしろべ)にてかたるをきかん」イザヤ30:20-21(文語訳)
 これこそ、キリスト者の慰めであります。心ぼそく、死の陰の谷を歩むときも、後ろから「これが道だ。これを歩め」との声がするとき、「ひとりではない。主がともにいてくださる」と勇気づけられるのであります。アァメン。

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