神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~

 神の臨在(至聖所)の中で開かれる聖書の啓示を紹介します。聖書の日本語訳に疑問を持ったのを切掛けに、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教などに学び、終末預言や聖書解釈の記事も載せていきます。栄光在主!

今日の奇跡37 〜沈んだヨットを釣り上げよ

久しぶりの金曜日の休日で、今日は何をしようか朝祈ると、ラジコンヨットをやってよいとの御声を聞き、えっ?と思いましたが、昔買ったヨットを持って近くの池へ行きました。しかし、いざヨットを走らせると強風のためコントロールを失い、しばらくすると右へ流されて行きます。どんどん遠くなり、岸から20mほど離れたところへ進むと、そのうちに水が入ってきたのか、船首から沈みだしました。

やってしまった!そう思った時には、ヨットは池の底に見えなくなってしまいました。緑に濁った水の中に、すっかり消えてしまいました。しかし、なぜか平安がありました。私は車に戻り、釣竿を持ってきて「主は、釣った魚の口から銀貨を出す方だ」(マタイ17:27)と思いながら、ラジコンヨットの沈んだあたりめがけて、仕掛けを付けた錘を振り投げました。あれ、針が引っかかって動かない。根掛かりしたみたいだ。あぁ、やっばり無理か。糸を切って帰ろうと思って、ゆっくりとリールを巻きました。ビクともしない。しかし、また、「主は、釣った魚の口から銀貨を出す方だ」と思いながら釣竿を握って池の側に立っていました。しばらくすると、池から泡がでてきて、ゆっくりと糸が動き出しました。次第に釣り糸がリールに巻き取られます。泡を出しながら何かひっかかったものが近づいてくる。一投目で引っかかったのだからきっと根がかりした葦か枝だと思い、ゆっくりと手繰り寄せました。近くで工事をしていた人たちが大物がかかったと言って、見物しだしました。糸を近くに手繰り寄せると、何か白いものが見えてきました。まさか、一投目でヨットを釣り上げるなんてありえない。しかし、白い帆が見えてきたのです。やった!池に沈んだヨットがゆっくりと上がってきたのでした!見ていた人たちも驚いたようです。奇跡だと思いました。主は、釣った魚の口から銀貨を出されたのです。主の御ことばのあとで神の平安が訪れていた理由は、これでした。ヨットは、無事に戻ってきたのです。それも何ひとつ壊れず動作する状態で戻りました。主の奇跡力には、いつも驚かされます。いつも、助け示してくださる主に感謝です。

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*一投目で釣り上げた、池の底のヨット

安息日の主2 〜4次元での聖時間

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2018.7.17撮影たくさんの視線

安息日とは、何なのだろう?

マタイ伝12章より

12:1そのころ、イエス安息日に麦畑を通られた。弟子たちは❶空腹になったので、❷麦の穂を摘んで食べ始めた。
12:2パリサイ人はこれを見て彼に言った、「ご覧なさい、あなたの弟子たちが、❸安息日にしてはならないことをしています」。

12:3イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデが❶飢えた時、共にいた者たちと何をしたか、読んだことがないのか?
12:4彼は神の家へ入り、祭司のほか、彼も共にいた者たちも❷食べてはならない供えのパンを、彼らは食べたではないか。
12:5またあなたがたは、安息日に❹宮にいる祭司たちが安息日を犯しても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか?
12:6しかし、わたしはあなたがたに言う.❺宮よりも大いなるものがここにいる。
12:7また、『❻わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたなら、あなたがたは罪のない人を罪定めしなかったであろう。
12:8人の子は安息日の主である」。(回復訳)

 

安息日に、主は「❺宮よりも大いなるものがここにいる。また、『❻わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたなら、あなたがたは罪のない人を罪定めしなかったであろう。」と言われ、安息日でのパリサイ人の弟子たちを罪定めする心を批判しました。

しかし、なぜ安息日を大切な戒めとして十戒に定めたのでしょうか。

十戒より

出エジプト記20:8

זכור את־יום השבת לקדשו ׃

安息日を覚えて、それを聖とせよ。

安息日は、ご存知の通り週の7日目(土曜日)です。

この7日目を❼聖とせよとは、聖別せよ  と言うことです。

キリスト教で、聖なる使用にあてるため、人や物を儀礼的にきよめ、世俗的使用から区別することを❼聖別と言います。

❼聖別には、いくつかの種類があります。

聖公会においては大きく分けて3つの聖別がある。聖体の聖別、聖職者の聖別、ものの聖別である。いずれも❽物質(人)を神に仕えるために用いるために、聖なるものとする行為である。中でも、聖餐式中の聖体の聖別は最も重要な秘蹟サクラメント)の1つとされているため、器具の聖別とは同列に扱うことは出来ない。」

東方教会(正教会)において、成聖(「聖なるものと成す」の意)とは、❾神とのつながりを回復することを指す。❽物品の神とのつながりを回復することを指して成聖とすることの他、人が成聖されることについても概念が存在し、聖人は神から与えられた賜物をもって成聖を成し遂げた者とも位置づけられる。」〜Wikipediaより

しかし、旧約聖書には❽物質(人)の聖別のほかに❼聖別すべきことがあります。それは、創世記や十戒の中にあるのです。

 

➓【場所の聖別】

それを示す箇所が創世記28:11~22にあります。

ヤコブが…

28:11一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。
28:12時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。
28:13そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。
28:14あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。
28:15わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。
28:16ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
28:17そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。➓これは神の家である。これは天の門だ」。
28:18ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、
28:19その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。
28:20ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、
28:21安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。
28:22またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。」(口語訳)

ヤコブは、ベテルで石を枕に眠ると、天使が上り下りするはしごを見ます。そのはしごの頂は天に通じます。その夢の中で主から祝福を受けるのです。この箇所では「主は彼のそばに立って、『わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう』と告げられ、ヤコブは『まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』と言って恐れています。ヤコブは、ここをベテルと名付け、特別な場所としました。また、エルサレム神殿の至聖所も同じ➓聖なる場所でした。

⓫【時間の聖別】

十戒出エジプト記20章

20:2わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

20:3あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

20:4あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

20:5あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、

20:6わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

20:7あなたの神、⓬主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

20:8⓫安息日を心に留め、これを聖別せよ。

20:9六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、

20:10七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

20:11六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は⓫安息日を祝福して聖別されたのである。

20:12あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

20:13殺してはならない。

20:14姦淫してはならない。

20:15盗んではならない。

20:16隣人に関して偽証してはならない。

20:17隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」(新共同訳)

安息日は、⓫時間の聖別です。週の第7日を安息日として❼聖別することは、4次元以上の世界では、大切な感覚です。4次元以上の世界では、3次元で場所を移動する旅行のように、自由に時間を超えていろいろな時代に行くことができるのです。しかし、この世界で危険な場所や立ち入り禁止場所、神聖な場所等があるのと同じように、入ってはいけない時間、⓫神聖な時間があるはずです。主は、それを私たちに意識させようとしているのでしょう。

また、神が天地創造の後で7日目に休まれました。神にとっての1日は1千年のようです(第2ペテロ3:8)。7千年目を心から迎えることができるように、安息日を楽しみに迎え、最後の千年王国を待ち望み、聖とすべきです。毎週金曜日の日没から土曜日の日没が安息日なのです。

❽物、人、➓場所を聖とするだけでなく、⓫時間を聖別する意識を身につけることが、安息日を守ることの基礎なのでしょう。

⓬【御名の聖別】

レビ記22:32
あなたたちは聖なるわたしの名を汚してはならない。わたしはイスラエルの人々のうちにあって聖別されたものである。わたしはあなたたちを聖別する主である。(新共同訳)

もうひとつ⓬御名を聖とすることも戒めにあります。⓬「御名が聖とされますように!」(マタイ6:9)と祈るだけでなく、御名の真意を理解すべきです。⓬主の名をみだりに唱えてはならないとは、御名をしっかり理解して唱えよと言われているように感じます。御名を聖とする戒めは、もっと高い次元へと繋がっているようです。種々の聖別とは、われわれがいる世界よりも、聖別されたより高い次元があるという意識を開く鍵のようなものです。

種々の戒めの目的は、聖別された より高い次元にわれわれの意識を導くことなのです。

聖なる方を目標にして、意識して生きよと言われているのでしょう。

レビ記11章

11:44わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれわたしが聖なる者だからである。地上を這う爬虫類によって自分を汚してはならない。

11:45わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。(新共同訳)

御名が聖とされますように!「ありてある方」は聖なる方、そして、われわれも聖なる者となるのです。主の聖なる御名は、モーセと共にありてあった方、われわれと共に「ありてある方」だからです。

 

安息日について、こう書きながら、私自身は、意識の低い者です。安息日の過ごし方は、主の御声に従います。わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益であるからです。

ピリピ1章

1:18それではどうなのでしょうか? 見せかけであろうと真実であろうと、あらゆる方法でキリストが宣べ伝えられているのですから、わたしはこのことを喜んでいます.そうです.わたしはこれからも喜びます.

1:19というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです.
1:20そこで、わたしの切なる期待と希望は、わたしがどんな事にも恥じることなく、かえっていつものように、あらゆる事で大胆になって、生きるにも死ぬにも、今なおキリストが、わたしの体において大きく表現されることです
1:21なぜなら、わたしにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益であるからです。(回復訳)

レビ記11章

11:45わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。(新共同訳)

*キリストは、安息日の主なのですから、安息日に、キリストが、わたしの体において大きく表現されることを願います。

マタイ12:8「人の子は安息日の主である」(回復訳)からです。

 

出エジプト記20:3
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

 

主は、われわれに高い天の領域へ立ち帰れと言っているのでしょう。主と共に過ごす安息の領域へ。

「立ち帰れ!天の王国は近づいたからだ!」(マタイ3:2)

トマスの福音書40 〜父に繋がる

継続してトマスの福音書を解説し、意訳しています。

40節

*Said-JS40 (this) a-vine-of-grapes, did-they- 

-plant-her in-the-side-outer of-the-father, > and she-being-for-tified not, they-will-pull-her-up by-her-root &-she(will)-be-destroyed.

40直訳

JS40 イエスはこう言った:❶ぶどうの木、彼らがそれを❷父の外側に植えたなら、そして❸強化されず、かれらはそれを❹根っこから抜き、それは❺破壊されるだろう。

 

 40節は、福音書の中に似た記事があります。その箇所を以下に示してみます。

ヨハネ伝15章

15:1「❶わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫である。
15:2わたしにある枝で実を結ばないものはすべて、彼は❹取り去られる.そして実を結ぶ枝はすべて、もっと実を結ぶようにと、彼は手入れされる。
15:3わたしがあなたがたに語った言のゆえに、あなたがたはすでに清いのである。
15:4わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。❻枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできない。
15:5❶わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。
15:6わたしの中に住んでいない者は、枝のように❹投げ捨てられて枯れてしまう.人々はそれを集めて、❺火の中に投げ込むので、それは焼かれる。
15:7あなたがたがわたしの中に住んでおり、わたしの言葉があなたがたの中に住んでいるなら、何でも望むものを求めなさい.そうすれば、それはあなたがたにかなえられる。
15:8あなたがたが多くの実を結ぶことで、わたしの父は栄光を受けられ、こうしてあなたがたはわたしの弟子となる。
15:9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した.わたしの愛の中に住んでいなさい。
15:10あなたがたが❼わたしの戒めを守るなら、わたしの愛の中に住むであろう.それは、わたしが❽父の命令を守って、彼の愛の中に住んでいるのと同じである。
15:11これらの事をあなたがたに語ったのは、❾わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

15:12⓫わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい.これがわたしの戒めである。
15:13人が友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛を、だれも持つことはない。
15:14⓬わたしが命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友である。

(回復訳)

 

ヨハネ伝では、ぶどうの枝が❻イエスという木の中に住んでいないなら、実を結ばないと言っています。トマスの福音書40節では、ぶどうの木が❷父の外側に植えられたなら、木は❸強化されず、かれらはそれを❹根っこから抜き、それは❺破壊されるだろうと言っています。

❻イエスという木の中に住んでないことと、❷父の外側に植えられることは、同じ意味で語られているようです。

エスという木の中に住み、父の内側に植えられることが、大切なのですね。

それは、どういう意味でしょう。

ヨハネ伝では、「あなたがたが❼わたしの戒めを守るなら、わたしの愛の中に住むであろう.それは、わたしが❽父の命令を守って、彼の愛の中に住んでいるのと同じである」と言います。つまり、「イエスという木の中に住み、父の内側に植えられる」とは、❼イエスの戒めを守り、❽父の命令を守って神の愛の中に住むことです。それは、苦しいことではなく、❾イエスの喜びがわれわれの中にあり、喜びが満ちあふれるためであると言っています。❼わたしの戒めや父の命令を守ることは、苦痛ではなく、❾イエスの喜びが内に宿り、喜びが満ちあふれることなのです。

戒めとは、何でしょうか。

⓫わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい.これがわたしの戒めであるとあります。戒めは、イエスが弟子たちを愛したように、愛し合うことなのでしょう。

マタイ伝5章には、次のようにあります。

5:17わたしが律法や預言者を廃止するために来たと思ってはならない.廃止するためではなく、➓成就するために来たのである。(回復訳)

 

エスは、神の律法や預言者を➓成就する力があると言うことです。

⓬わたしが命じることとは、⓭聖霊を受けたならイエスが言ったすべての事を思い起こさせてくださるのです。

ヨハネ伝には、次のようにあります。

14:26しかし慰め主、すなわち、父がわたしの名の中で遣わされる⓭聖霊は、あなたがたにすべての事を教え、またわたしがあなたがたに言ったすべての事を思い起こさせてくださる。(回復訳)

トマスの福音書では、そこまでは語っていませんが、❷父の外側とは、⓭聖霊による父の命令やイエスの戒めの啓示を受けられず、父の支配や加護に入っていない状態なのでしょう。

40意訳

JS40 イエスはこう言った「彼らがぶどうの木を❷父の(支配・ご加護の)外側に植えたなら、ぶどうの木は❸根付かずしっかりと育たない。彼らはそれを❹根っこから抜き、ぶどうの木は❺解体されるだろう。」

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2018.7.15撮影

安息日の主1 〜安息日を考える

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安息日のご臨在 2018.7.14撮影

安息日とは、何なのだろう?

マタイ伝12章より

12:1そのころ、イエス安息日に麦畑を通られた。弟子たちは❶空腹になったので、❷麦の穂を摘んで食べ始めた。
12:2パリサイ人はこれを見て彼に言った、「ご覧なさい、あなたの弟子たちが、❸安息日にしてはならないことをしています」。

12:3イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデが❶飢えた時、共にいた者たちと何をしたか、読んだことがないのか?
12:4彼は神の家へ入り、祭司のほか、彼も共にいた者たちも❷食べてはならない供えのパンを、彼らは食べたではないか。
12:5またあなたがたは、安息日に❹宮にいる祭司たちが安息日を犯しても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか?
12:6しかし、わたしはあなたがたに言う.❺宮よりも大いなるものがここにいる。
12:7また、『❻わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたなら、あなたがたは罪のない人を罪定めしなかったであろう。
12:8❼人の子は安息日の主である」。(回復訳)

同じ箇所がルカ伝6章では、

6:1さて、ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられた時、弟子たちは❷麦の穂を摘んで、手でもみながら食べていた。
6:2すると、パリサイ人のある者が言った、「なぜあなたがたは、❸安息日にしてはならないことをしているのですか?」
6:3イエスは彼らに答えて言われた、「あなたがたは、ダビデが飢えた時、共にいた者たちと何をしたか、読んだことがないのか?
6:4彼は神の家に入り、祭司のほか、だれも食べてはならない❷供えのパンを取って食べ、供の者たちにも分けてやったではないか」。
6:5そして、イエスは彼らに言われた、「❼人の子は安息日の主である」。
6:6また、別の安息日に、イエスは会堂に入って教えられた.そこに一人の人がいて、右の手がなえていた。
6:7聖書学者とパリサイ人は、❽イエス安息日にいやすかどうか、注意深くうかがっていた.それは、❾彼を訴える理由を見つけ出すためであった。
6:8しかし、イエスは彼らの考えていることを知り、手のなえている人に言われた、「起きて真ん中に立ちなさい」。彼は起きて立った。
6:9そこでイエスは彼らに言われた、「わたしはあなたがたに一つ聞きたい.➓安息日に善を行なうのと悪を行なうのと、⓫命を救うのと滅ぼすのと、どちらがよいのか?」
6:10そして⓬彼ら一同を見回して、イエスは彼に言われた、「あなたの手を伸ばしなさい!」。彼は伸ばした.すると、彼の手は元どおりになった。

 

マルコ伝 2章

2:27イエスはまた彼らに言われた、「⓭安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない。
2:28だから、❼人の子は安息日の主でもある」。(回復訳)

 

安息日とは、何だろうか考えてしまいます。

❶空腹の弟子たちは、麦畑で麦の穂を摘んで食べ始めました。パリサイ人は、「❸安息日にしてはならないことをしています」と弟子たちを⓮罪定めします。それに対して、主イエスは、ダビデは❶空腹のときに❷食べてはならない供えのパンを、食べたではないか。安息日に❹宮にいる祭司たちが安息日を犯しても罪にはならない。❼人の子は安息日の主であると言います。

また、ルカ伝で、❽イエス安息日にいやすかどうか、注意深くうかがっていたパリサイ人は、❾彼を訴える理由を見つけ出すために一生懸命でした。

それに対して、主イエスは、『❻わたしが求めるのはあわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたなら、あなたがたは罪のない人を罪定めしなかったであろうと言い、➓安息日に善を行なうのと悪を行なうのと、⓫命を救うのと滅ぼすのと、どちらがよいのか?と言って、右手がなえた男を癒されました。

パリサイ人は、安息日を聖別すべきだと言いながら、その安息日に弟子たちを⓮罪定めし、❾イエスを訴える理由を見つけ出してやろうという憎しみの思いで心を満たしていたのです。

主イエスは、それを見抜いて、➓安息日に善を行なうのと悪を行なうのと、⓫命を救うのと滅ぼすのと、どちらがよいのか?と言ったのでしょう。

❶空腹なら、❷食べたらよろしい、⓭安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない〜とも言われました。パリサイ人のように、人を罪定めし、人をひっかけてやろうと虎視眈々と安息日を過ごすより、⓭安息日は人のためにあるのであって、心を悪や世俗から解放し、➓善を行ない❻あわれみをもって、⓫命を救い、❶食べて、癒されよ〜と言っているようです。福音書では、安息日に心のあり方を問うている主イエスの姿が見うけられます。