師の話より:聖書を読んで文字の背後にある実体ー御霊ーを把握することが大切です。「御言うちひらくれば、光を放ち、愚かな者を聡からしむ」(詩篇119篇130節)
言が破れて◉実体の生命がはみ出してこないと、どんなに聖書を読んでも、生命の光がなく、ダメです。...
例えばコリント前後書やロマ書などは、パウロの手紙ですが、それは信者たちにパウロが自分の信仰内容を説明するために書いたものでした。それを後代の教父や聖書学者が註解すると、それにまた今の牧師や神学者どもが註解を加えます。心から心へ中身を伝うべきであるのを、言から言に説明で伝えようとするから、真理はだんだん薄くなり、一片の知識と化します。
文字の外側をいくらつつき廻しても、中身を捉え得ない。いくら聖書知識をためこんでも、少しも信仰に力がない。大切なのは、◉信仰の生命を得ることです。生命が入ってくると、自ずと霊的感覚がひらけて、神の真理は理解できます。 -中略ー
パウロは、自分の信仰の生命を、信仰的な内容を説明するために手紙を書いたのです。その手紙に注釈を加えて、聖書の文字や、知識を解剖するのは愚かなことです。
私はコリント後書を学んで、パウロが信じていた信仰が何とすばらしいか、と思うよりも、私の現在の信仰を何とまあすばらしくパウロが註解してくれることよ、と驚嘆し、私の信仰に共鳴を覚えてくれることに感動して読んでいます。これ「身読」というものです。
聖書が私の信仰の真理であることを裏づけてくれる。それというのも、聖書に流れる同一の霊に私が浴しているからです。
信仰にとって大切なことは、まず神霊の「心路の発見」であって、教理や宗教哲学はどうでもよい。後回しでよいということです。 -以上
師にとって、パウロ書簡は、自分の信仰の確認でした。「実体の生命がはみだしてくる!」小生もそんな信仰の高嶺を目指したいです。