夜の祈りの中で、示されたこと。
ここが悪いから、ここに罪があるから悔い改めよと言われても、人は自分では、心からの悔い改めなどできない。
主の聖なるご臨在があれば、何も意図せずとも涙が出て悔い改める。それが、コンバージョンです。方向転換なのです。
世人が言うように、悔い改めてここを直せばよくなるなど、その程度のものは悔い改めではない。肉の自我を整えようとする行為でしかない。それは宗教で一生懸命修行するようなものです。自我を強くするだけの行為です。
熱心に悔い改めるとは、聖なる方に近づき、その聖さのゆえに自分自身には何もないことを知ることだ。聖い臨在の前に、膝をかがめることです。それがコンバージョンです。それが内住のイエスにすべてを明け渡す行為へとつながる真の方向転換です。
そこに神の臨在がなければ、悔い改めは意味のないことですね。
「そして言われた、『時は満ちた.神の王国は近づいた。❶悔い改めて福音を信じなさい』。」(マルコ1:15回復訳)
❶ギリシャ語μετανοίας(metanoias)「心を入れ替える」 ❶ヘブル語(shubu)「戻る」
神の国が近づいたのだから、その支配(臨在)のもとに❶戻りなさい~と言っているのです。毎日、自分自身を見て落ち込むことではない。方向転換して、自分など見なくなる。面前の主を見ていればいいのです。神の支配に入っていないから罪を犯すのです。「長血の女のように主に近づき、裳裾に触れよ。触れさえすれば癒される!」「御国へ❶戻れ!」と言っているのですね。
イエス=キリスト(御名の意味:YHWHは救い)以外に救いはないのです。自分自身からは何も良いものは出ない、悔い改めすら出てこないのは、わかっています。この方以外に救いはないのです。一つの目で見つめるのは自分ではなく、このお方だけでいいのです。
この信仰の基本が、分からない方がいつもメソメソ小さくなっているのです。私も悔い改めばかりの説教を聞き続けて、そんな救いのない小さくなって悔いるばかりの時期が長かった。
聖書で、主イエスは、取税人ザアカイに「悔い改めよ!」とは言っていませんでした。また、姦淫の女にも同じです。しかし、イエスに近づくと、皆が自分の悪事に気づき、行いを改め、天国の標準に立ち返ることができたのです。「悔い改め」という訳が悪い。「立ち返り」と言うべきかもしれません。主の臨在に触れることで、天国の標準に立ち返ることが可能なのです。自分自身を見ていても、救いはありません。この方、主イエス以外に救いはないのです。