敬愛する師の話より
「されど人の子が来る時、地上に信仰を見んや」(ルカ伝18: 8)と、寂寞たる信仰の来世を想うて、主イエスはお嘆きになった。せめて私も終末の日に咲く魂となって、再臨の主、その御瞳をお喜ばせしたい花でありたい。これが私の希望の希望であります。身の程を知る私は、こんなわけで、いつも希望満々である。人に知られずとも、主に知られたい。夜が暗ければ暗いほど、冬枯れがひどければ酷いほど、その日近きを思うて、希望に胸がときめいてきます。まして、この過ぎ越し方を想い、溢るる主の恵みに、感謝は尽きません。
真の祈りは、鉄石よりも固い宇宙意識に、我が祈念を刻みつけてゆくことです。刻みつけた以上は、もう永遠に消えない。やがて事実となって、何らか現象し来るものです。真の祈りなくしてなされた仕事は、どんなに成功に見えても、砂上の足跡の如く、風過ぎれば跡形もないのです。
人々に語るよりも、まず神に語れ。まず神に問え。まず神に聞いて、神学書や宗教書には聴くな。主のごとくに、大いなる叫びと、涙をもって祈れよ。祈りは神聖な労働である。神の栄光はどうしたら現れるか。どんな祈りが聴かれるのか。
第一に、神の御意思に反すると思う事は絶対に願わない。すなわち、神は最善の愛であるから、神の最善しか、自分にも他にも願わない、想わない。
第二に、神のご意志にはどんなことでも(たとえ十字架であっても)従順に従います、と祈り得ること。
この条件下に必ず神の栄光は現れ、神は無限の力を持ってどんな弱い者も助け、協力したもうべき者なることを体験できる。これが私の祈りの秘訣である。〜以上、師の話 1958年
※小生の祈りも、鉄石に刻みつけたい、否、すべての祈りは、間違いなく神の記憶の中に刻みつけられているのです。そして、それは現象し、叶えられます。万が一叶えられなかったとしても、天でその報いを受けとるのです。ハレルヤ!
5778(2017)ローシュ ハシャナ 9.21-22
ヨム キプール 9.30
🍷 スコット 10.5-6〜11
されど人の子が来る時、地上に信仰を見んや
ヨム キプール⇒スコット ~贖罪日が近づく - 神の至聖所 ~聖書とキリストの啓示より~