夜半の祈りの中で、示されたこと。コルベ神父の身代わりの行動について、その秘訣を主が示してくださいました。
1.神父には、無畏心(畏れの無い心)があった。怖れを知らない信仰があった。餓死室をも怖れない信仰があった。どんな境遇でも「救われている」という信仰があった。牢獄でパウロとシラスのように讃美と祈りを捧げたのは、信仰に基づいた無畏心のなせるわざだ。
使徒言行録16章 25節
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。(新共同訳)
2.コルベ神父には、意識しない愛があった。無畏心の上に隣人を思いやる無意識の愛があった。親切で人に道を譲るような無意識の愛があった。その愛は、主の栄光を現すことになった。
ヨハネによる福音書15章 13節
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(新共同訳)
3.コルベ神父には、天においても地においても、いっさいの権威を持つ主イエスが共にいることがわかっていた。だから、終始堂々として、身代りすら進んで申し出れたのだ。
マタイによる福音書28章18-20節
28:18イエスは来て、彼らに語って言われた、「天においても地においても、いっさいの権威がわたしに与えられている。
28:19だから、行って、すべての国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして、
28:20わたしがあなたがたに命じておいたことを、すべて守るように教えなさい。見よ、わたしはこの時代の満了まで、日々あなたがたと共にいる」。(回復訳)
〜〜〜〜〜〜〜
「そのとき、囚人の中からひとりの男が所長の前に進み出た。
所長は銃を突きつけ「何が欲しいんだ、このポーランド人め!」と怒鳴った。
しかし、男は落ち着いた様子と威厳に満ちた穏やかな顔で「お願いしたいことがある」と言った。
所長が「お前は何者だ」と問うと、その男は「カトリックの司祭です」と答えた。そして静かに続けた。「自分は、妻子あるこの人の身代わりになりたいのです」。
所長は驚きのあまり、すぐには言葉が出なかった。囚人が皆、過酷な状況の中で自分の命を守るのに精一杯なのに、他人の身代わりになりたいという囚人が現れたのだ。
その場のすべての者は呆然となった。しばらくして所長は「よろしい」と答え、コルベ神父を受刑者の列に加え、ガヨヴィニチェク(フランツェク・ガイオニチェク)を元の列に戻すと、黙り込んでしまった。」〜以上、聖コルベ館HPより〜
なるほど、神父の顔は、すでに勝利した!と語っています。彼は勝利者そのものです。私は、コソコソ逃げようとしたが、彼は堂々とアウシュヴィッツで主の権威を現しました。その姿に所長もたじろぐほどでした。ここに秘訣があるのですね。
http://adonaiquovadis.hatenablog.com/entry/2018/06/09/215855